『全力を注いで』
ヨハネ3章24〜36節
@ バプテスマのヨハネの生涯から、私たちの生き方について考え、学びたいと思います。
A さて、ヨハネの弟子たちは、言いました。「あなたが、ヨルダンの向こうで証をして
おられた方が、バプテスマを授けておられます。」と。それに対してバプテスマのヨハネは答えて
言いました。「私はキリストではなく、あの方の道備えのために、先に遣わされた者です。」と。
だから自分は主役ではなく、主役である花婿の友人であり、その方が来たので、わたしは、喜びで
あふれているのです。と言いました。実にヨハネの働きは、イエス様が来られる時までであり、
その働きの期間は短いものでした。それは、燃えて輝くともしびとして、花火のようにパッと
輝いただけで、直ぐに命を取られてしまったのです。
B では、ヨハネの生涯を私たちに当てはめて考えてみましょう。私たちは、主に仕えるもの
として召されました。パウロが、肉に属しているようなコリントのクリスチャンたちにさえ
言いたかったメッセージは、「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに
励みなさい。」ということでした。それは、私たちの教会に対しても語られているパウロの
メッセージです。「あなた方の労苦は、主に在って無駄にはならないよ。だから、全力を注いで
主のわざに励みなさいよ。」と。この道を歩んだのが、正にバプテスマのヨハネでした。
彼は、いなごと野蜜を食物として荒野で暮らしていましたが、突然ヨルダン川に現れ、教えを
宣べ伝えて言いました。「まむしの末たち。だれが必ず来る御怒りから逃れるように教えたのか。
悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と、すごい勢いでメッセージがなされ、多くの
ユダヤ人たちが悔い改めに導かれました。ところが、ヨハネの働きは数ヶ月で終わってしまい、
命を取られてしまったのです。彼の仕事は、イエス様が創造主の御子であることを証しすること
でした。その働きが終わったのですから、イエス様も創造主も、彼の命が取られてもそれで良し!
とされたのです。いくら命を長らえていても、主の働きをしなかったら、創造主にとって意味は
ありません。私たちの人生は、創造主に対して如何に生きるかで決まるのです。
勉強も、創造主の役に立つための勉強であってこそ、価値があるのです。私たちの人生は外側の
包装紙で決まるのではありません。ですから、無くならない永遠の食物のために働きなさい、
と言われているのです。主の役に立つ働き人とは、イエス様の心を理解し、イエス様の意図に
合った働きをしていくことです。ところが私たちは、褒められたいという我が働き、自分流を
だして、なすべき以上のことをしたと認められたいと考えています。しかし主が求めておられる
心は、「私は役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」という砕かれた
心なのです。自分は衰えればいいのです。イエス様だけが褒め称えられればいいからです。
ヨハネも、「イエス様は盛んになり、自分は衰える」と言ったとおりに、自分が果たすべき働きを
成し遂げることに集中したのです。このヨハネの生涯は、私たちに、「役に立たないしもべです。
なすべきことをしただけです。」という忠実な生き方を教えるためのものでもありました。
C ヨハネは、イエス様の出現まで荒野で創造主からの訓練を受けました。私たちも、さまざまな
訓練の中で、叱られることがたくさんありました。しかし、その時々が、訓練なのです。
叱られたくないと逃げれば、役に立たないしもべとなって外に出されてしまいます。
ところが、「怒られることは、自分のまちがいをはっきり知るためのもので、それをへりくだって
認めたときは、その経験が平安の入り口になるのです。」この心をつかんだ者は、怒っている人
の立場に立って考えますから、自分の間違い(罪)に気づき、認めることが出来るようになり
ます。そして更にその意図に合った働きをしようとします。この労苦は、決して無駄になる
ことがありません。それは、天の父が、知ってくださることですから。ですから、この心を
持って、無駄にならない働きをして行こうではありませんか。 |
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