『復活の望み』
第Tコリント15章29〜58節
@ 復活と復活の体について考え、私たちの残りの生涯を、どこに焦点おいて生きていくべきか、
考えて行きたいと思います。
A さて、キリストが復活された事によって、私たちの希望と喜びは増してきます。
もし、私たちの復活が、輪廻のようなものであるなら、「自分の前世は何だったのか。次は何に
なって生まれるのだろうか。犬か?豚か?奴隷か?・・・」と考え、不安になってくるでしょう。
もし犬で生まれ変わったとしたら、自分が自分であることも分かりません。
しかし、イエス・キリストの復活は、イエスご自身であることが分かる形で甦り、生きておられる
姿を人々の前に現されました。ですから、私たちの甦りも、当然犬ではなく、私自身の甦りな
のです。ですから、不安どころか、希望と喜びがあります。しかも、そればかりではありません。
朽ちる体が、朽ちない体として甦るのです。これは、凄いことです。肉の限界を覚えて、苦しみ
悲しんでいた体が、不死を着て、天上の体に甦るとは、なんと嬉しいことでしょう。この地上の
悲しみがすべて拭われるのです。この復活する望みは、クリスチャンたちの生き方をも変えて
しまいます。
B さて、ここでクリスチャンの地上の生き方について考えてみましょう。使徒パウロは、
信じる前と信じた後では、真逆の生き方を始めました。それは何が、彼にそうさせた
のでしょうか・・?それは、キリストの復活によって、自分も復活に預かることが分かった
からです。同じように私たちも、復活の体をいただく事が分かったら、地上の生き方が変わり
ます。信じる前のパウロは、生まれながらの熱心なパリサイ人で、イエス・キリストを信じる
者たちを迫害し、捕まえては牢に入れた、当時の支配階級に属する人でした。
ところが、信じた後では、逆に、お尋ね者となり「いつも殉教の死にさらされ、日々が死の連続」
という道を歩み始めたのです。迫害していたときは、キリストの甦りを信じていませんでした。
しかし、実際に甦えられたキリストに出会った時から、その生き方は180度変わり、全く逆の道を
歩み始めたのです。即ち、自分自身がお尋ね者となり、ライオンと戦ったり、人々に命を狙われる
ようにさえなったのです。そして、当時のクリスチャンたちもみな、信じたことによって、
パウロと同じように、あえて苦しみの中に入っていきました。信じればそうなることを知って
いても、彼らはキリストを信じる道に向かったのです。もし、復活が無いというなら、
そんなことはしなかったでしょう。では、どのようにして復活し、どんな体で復活するの
でしょうか。それは種に置き換えることが出来ます。種は土の中に蒔かれ、死んでから新しい花を
咲かせます。同じように私たちも、死んでから、新しい体を持つのです。即ち、「朽ちるもので
蒔かれ、朽ちないものに復活する」(42〜44節)のです。
なぜなら、朽ちるもの(生まれながらの血肉)は、朽ちないもの(創造主の国)を受け継ぐことは
出来ません。(50節)。ですから、イエス・キリストは、私たち罪人のために十字架にかかって
死んでくださり、キリストにあって新しい体を持つようにしてくださったのです。パウロは、
この主の救いの素晴らしさを知っていたが故に、どんな苦しみの中にあっても逃げず、
耐え忍んだのです。しかも、それは、「終わりのラッパの響きと共に、まばたきする瞬間に、
一瞬にして変えられる。」(51,52節)のです。それは栄光の体、天上の体に変えられる
瞬間です。
ですから、キリストのために生きていくことは希望であり、目的であったのです。
C 「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。あなた方は、
あなた方の労苦が、主に在って無駄にならないことを知っているのですから。」(58節)。
私たちの労苦は積み重ねっていますが、無駄にはなりません。それは、復活にあずかるからです。
この復活があるのですから、全力を注いで、主のわざに励んで行きましょう。 |
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