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2012年7月15日


 『奴隷でも気にするな』



Tコリント7章18〜24節


@ 21節の御言葉から「召されたとき奴隷であっても、それを気にする必要はありません。」

とありますが、何故、「気にするな」と言われているのかを学びます。


A さて、奴隷であることは、屈辱的で気の滅入る事です。それまで持っていたプライドも、

何もかも剥奪されて奴隷とされるのですから、「気にするな」と言われても、そうはいきません。

しかし、そのように言われる根拠はどこにあるのでしょうか。


B では、このことを私たち自身に置き換えて考えてみましょう。

私たちはそれぞれ欠点があり、弱いウイークポイントを持っています。例えば、悪霊に対して

「怖い」という弱さを持っているとしましょう。怖いといって逃げてしまえば、悪魔と戦うことも

せず、戦いの流れから自分だけ置いてきぼりにされ、取り残されてしまいます。

しかし、逆に粋がって、「弱さを認めたら終りだ」と思って、「肉の力で一生懸命戦って

いくんだ!」と、軟弱な自分を鼓舞します。しかし、それでも失敗してしまいます。

それは、肉の力では、敗北します。ですから肉の法則ではなく、霊の法則に立たなければなり

ません。それは、「私たちはキリストに在って生きているんだから、ダメじゃない。」と、

信仰によるハッタリをきかせてキリストの側に立つことです。また、自分の弱さをそのまま

認めると、不思議と怖さが無くなるのです。その自分の弱さを認める心こそ、砕かれた悔いし心

です。肉の考えでは、自分の弱さや、情けなさや、弁解できない汚点を明らかにしたら、

生きていけないと思ってしまいます。しかし、
出来ない自分、弱い自分をそのまま認めることは

敗北ではありません。私たちはイエス・キリストに在って生きているのですから、自分の力に

頼って生きていかなくても良いからです。
これも肉の法則でなく、霊の法則に立つのです。

 ですから、
「奴隷であることを気にするな。」ということは、ありのままの自分を認めて

いけばいいんだ、
ということなのです
。イエス様は、何の能力も無い、欠点だらけの罪人を

救うために、十字架にかかられたのです。確かに奴隷というのは一番知られたくない身分です。

しかし、地上にあっては召されたときのままに留まっていればいいのです。

私達は、甦って、御霊の体をもらって、永遠に生きていくものですから、地上ではそれでいいの

です。かえってイエス様は、自分を隠して見栄の中に歩む人を責められます。大事なのは、

割礼の有無ではありません。私たちは、復活の命を与えられたものですから、人からどう

思われようが関係ありません。何の能力も無い自分を認めて、イエス・キリストに在って生きて

いけばいいのです。

C 私たちは代価を払って買い取られたものですから(22,23節)、イエス・キリストに

在って生きていくんだと、ここに賭けて生きていくのです。出来ないと思わないで、出来ない

からこそイエス様に頼って、信仰によるハッタリをきかせてやるのです。イエス様に頼って

いくなら、無限の主の働きが起こってくるのです。これこそ私たちが願っているものです。

目先の結果ではなく、本物の主から来た結果が欲しいからです。また、主がなさった!

と明らかになる伝道をやって行きたいのです。そのためには、
自分の肉にこだわりを持ったり、

頼ったりしないで、霊の法則の世界で生きていきましょう。主の前に、真実な自分を認めて

いきましょう。   
  



                                        

  
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