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2012年6月24日


 『罪を度毎に告白する』



第Tヨハネ1章5〜10節



@ 第一ヨハネ1章9節(創造主訳)「自分の罪を度毎に告白する」という面から、砕かれた

悔いし心について考え、学びたい
と思います。

A さて、私たちが「砕かれた心」について学び始めたのは、「空っぽの器に油が満たされる」と

示された時からです。空っぽの器になるためには、砕かれた心が必要だと分かったからです。

何故なら、私たちが主の御心に従うためには、自分の我を砕いて創造主を基準にした考えに立た

なければ出来ないからです。もし我を砕かなかったら、自分の損得を優先した生き方が当り前と

なってしまい、主の御心を行っていくことは出来ません。さらに、「心に血の注ぎを受けた」

(ヘブル10章22)とあるように、心で主に近づくべきであって、頭で主に近づこうとするのは

間違っています。頭では、砕かれた心を持つことは出来ません。又、頭では心からの罪の告白も

出来ませんから、罪の責任を取ることも出来ないのです。


B では、私たちが罪の責任を取ることについて考えてみましょう。私たちクリスチャンは、

すでにイエス様が罪の責任を取ってくださっているから恵みで赦されており、私たちは罪の責任は

取らなくても良いと思っています。これは、救いを誤解しています。確かに、イエス様は永遠の

刑罰を受けてくださいました。ですから私たちは、永遠に聖なる者とされ、最後の刑罰を受け

なくても良い者とされたのです。つまり私たちは、キリストによる永遠の贖いによって、

地獄に行かなくてもよい者となったのです。

 しかし、普段の生活の中で犯している罪に対しては、私たちは責任をとるべきです。

次のように言われているからです。即ち、
「私たちが自分の罪を度毎に告白するなら、創造主は

真実で正しい方ですから、それらの罪を赦し、一つ一つの不義から私たちを清めてくださいます。」


と。ここで気をつけなければならないのは、私たちが罪を告白するとき、「悔い改め」と「赦し」を

混ぜて告白するということのないようにすることです。まぜこぜに考えている人は、罪の罰を

受ける潔さを失っています。なぜなら、「自分の罪が許されているから、自分の罪の罰(責任)

を受けないでいい」と考え、それが救いだと勘違いしているからです。

ですから、いくらスミマセンと謝っても、悪魔に攻め立てられるのです。しかし、
自分をかばう

こころ捨て、罰を受ける覚悟をもって、砕かれた心で「主よ。これをやりました。」と、素直に

「ありのまま」謝るなら、そこに主からの平安がやって来ます。
永遠の罪の裁きに関しては、

贖われ、罰はイエス様が全部受けて下さったのだから、赦しを受けています。しかし、この地上で

やったことは、自分がちゃんと謝るべきです。罪を犯した以上、それを積み残してはいけません。

「罰を受けるのは当然だ!」と思った人間のために、イエス様は十字架で苦しまれたのです。

この苦しみは私たち自身のことですから、自分をかばおうとせずに、「どのように叱られても

当然です」という心で、ありのままに「ごめんなさい」と、度ごとに謝っていきましょう。

そして、対外的な罪は受けていくべきです。それが責任を取ることであり、創造主は、

その時私達の一つ一つの罪から清め続けてくださいます。

C 
「砕かれた悔いた心を持った者を創造主は軽しめられません」。しかし、この世の者たちは

理解できないために、追い打ちをかけてきます。しかし私たちは、創造主に対して生きている者

ですから、罰を受けたくないと隠し続けるのではなく、正々堂々と告白し、主に対して誠実な、

真心の悔い改めをもって生きていきましょう。



                                        

  
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