@ 「創造主の安息に入り損なうことがないように」と、勧めているパウロのメッセージから、
私たちはどんな心で生きていくべきかを学びたいと思います。
A さて、ヘブル書簡のメッセージポイントの一つは、「万が一にも、安息に入り損なうことが
ないように、注意しようではないか。」(1節)という勧めです。
ですから、安息に入り損なった人々がどういうことになるのかについても語られています。
それは、御霊に預かる者となった人が、堕落した場合に、悔い改めに立ち返らせることが出来ないと
あります。また、反面、確かに一度信じれば救いを失う事はないとも記されています。
しかし、「救いをないがしろにするなら、安息に入り損なう。」ということも真理なの
です(真理の二面性)。それは、信じた後でも、いばらやアザミが生えて信仰を塞ぎ、実を結ばなく
なって無用のものとなり、焼かれてしまうという事があるからです。そのような人々を、再び悔い
改めに立ち返らせることは不可能だと言われています(6章6節)。
ですから、私達は、本当の信仰に立たねばなりません。
B では、本当の信仰に立つには、どのような心を持って行けばいいのでしょうか。
イスラエル人の場合、彼らはモーセを通して御言を聞きながら、それが心に結び付けられなかった
ために益とはなりませんでした(2節)。ですから、聞き従おうとしなかった者は、荒野で滅んで
しまったのです。私たちも、福音が信仰によって心に結び付けられていかないと、信仰を失い安息に
入れなくなる可能性があります。もし、創造主が分かり、イエスの救いが心に結び付けられたの
なら、「先ず創造主の国と、創造主の義を追い求めていく。」のは、当然の事になるでしょう。
それなのにどうして、自分の義・感情・損得等を優先して追い求めるのでしょうか。それは、救いの
理解が間違っているからです。多くの信者が救いを求めた動機は、自分が変わりたいとか、地獄の
裁きから救われたいというご利益主義から始まります。この地上的な願いが、自分の願い通りに
適えられないと、駄目だと思わされ、信仰の価値を失うのです。ところが、本物の救いを悟った
マグダラのマリヤや、死刑囚だったウイリアム・ニール・ムーアは、地上的なご利益ではなく、
損得抜きの、真実の魂の愛と救いを経験しました。ですから、「罪を赦す」といわれた主の言葉が
心に結び付けられ、「イエス様しかいない。この方に、どこまでも従っていこう。」と心が完全に
変わったのです。私たちも、イエス・キリストの十字架の苦しみ、一つ一つが、全部自分の罪の罰の
身代わりであることが分かった時、この贖いがどんなにありがたく、掛け替えのないものであるか
を、心に結び付けられます。「これまで、創造主に逆らってばかりいた私たち人間が、そこまで
して頂けるなんて・・・そんな価値が私たちにありますか?
私たちが頂いた救いがどんなに真実なものであるか!良く分かり、また、これまでの私たちは、
どんなに身勝手な求め方をしてきたことでしょうか。」ですから、今こそ御言葉を私たち自身の心に
結びつけ、本物の心で主に従っていく決心をしていくときです。
C 私たち人間は、心にある思いで生きていきます。もし、頭で分かっても心がついていかな
ければ、動きません。頭でアレコレ考えたビリーグラハムの協力伝道者であったテンプルトンは、
安息に入り損ねました。
私たちは、心で向かって、本気で心を働かせねばなりません。そうしなければ、
安息に入ることが出来なくなるからです。真心をもって主に向かい(10章22)、同じ熱意を
持って、全員が主の幸いの中に入れるように、心を開いていきましょう。
「万が一にも、安息に入り損ねることがないように、注意しようではありませんか。」 |