『弟子たちに与えられた権威』
マルコ3章13〜19節
@ イエス様が、弟子たちを宣教に遣わされるときに与えられた権威について考え、
「聖書に書いてあることは、今日もその通りになる」という事を証ししていく、生き方について
学びたいと思います。
A さて、今日の日本におけるクリスチャンの数は、僅か1%に過ぎません。
その中で、聖書の原理主義に立つクリスチャンは、更に低くなるでしょう。なんと、99%が
未信者なのです。何故日本における宣教がこれほどまでに伸び悩んでいるのでしょうか。
その原因の一つに、科学万能主義と進化論教育がその原因にあげられると思います。
敗戦後日本は、天皇中心の儒教的な教育から、進化論教育に変わりました。その結果、
科学一辺倒に傾いた、科学万能の教育とその考え方が定着し、「科学で証明できないものは
信じるに値しない」という考えが学校教育によって、定着しました。その結果、心は失われ
頭だけを重視する風潮が主流となってきました。この影響力は、教会にまで及んできたのです。
B では、これらの教会に与えた影響と、今日の私たちが立つべき信仰の立場を考えてみたいと
思います。私が入信した頃の1960年代は特に進化論や科学万能主義が強く吹き荒れていました。
イエス様の奇跡を「科学的に証明できるのか?証明できないものを伝えられるのか?」と。
非科学的なことを信じている者は、無知蒙昧のやからだと言わんばかりでした。
こうして、宣教をあざ笑うかのような激しい妨げに会っていたのです。それに対して教会は、
どう考えていたのでしょうか。それは、聖書が完結する前と後では福音の啓示に違いがあると
考えたのです。つまり、聖書の完結する前は、聖霊の満たしや、いやしの奇跡、悪霊の追い出し
があり、それによって、イエスが創造主の御子であり、人の罪を贖う救い主であることを証されて
いた。しかし、今日は聖書が完結しているので、科学万能の時代に、奇跡を語る必要はない。
奇跡は当時だけのことで、今日は聖書が完結しているから奇跡に頼る必要は無く、御言葉に立てば
いいと言われてきました。ですから、私たちの時代には、聖霊のバプテスマや異言も否定し、
まして悪霊の追放は聞いたこともありませんでした。科学万能の時代だから、聖書の中の奇跡は
切り取って、今の時代に合った部分だけをピックアップして伝えれば良いというようになって
いました。(そういう中で、今日のクリスチャンは育ってきているのです)。
しかし、クリスチャンの信仰の土台は御言葉そのものですから、聖書を読んで、「これは違う、
アレは違う」というのはおかしなことで、「主の言葉は永遠に変わらない」とあるのですから、
聖書に書いてあることは、今日も同じであるはずです。なのに、なぜ奇跡が、今日に起こらない
のでしょうか?それは、クリスチャンでさえ「今の時代に奇跡はない」と考える人々ばかりになり、
それはちょうど、イエス様の時代の郷里ナザレの人々のように、不信仰な人々の前では、奇跡が
行われなかったからです。だから、今日の教会では、主の奇跡が起こされなくなったのです。
ですから、私たちは、「聖書に書いてあることは、今日も起こることを証ししていきたい」と
決意したのです。イエス様は弟子たちに、「病気を癒し、悪霊を追い出す権威」を与えられ、
福音宣教に遣わされました。これら三つの働きはセットになっていました。私達は、今日も同じ
であると信じます。それを今、具体的に体験してきています。まさしく聖書の言葉は100%、
永遠に変らない創造主のお言葉であります。
C 私たちが御言葉に立って行こうとするとき、その通りの生き方をしていかなければ、
口先だけの者となってしまいます。それは、「先ず創造主の国と、その義とを第一に求める」
生き方です。生活を気にしながら戦いは出来ませんから、「主は、必要は与えて下さる」という
信仰に立ってやっていくのです。聖書の言葉は、今日も起こることを信じなければ、大胆に伝えて
いけません。イエス様は、「わたし以上の働きをする」と言われたのですから、出来るはずです。
堅く信仰に立って悪魔に立ち向かっていきましょう。そして、勝利を得ていきましょう。 |
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