『ヨハネの黙示録が書かれた理由』
ヨハネ黙示録9章13〜21節
@ ヨハネの黙示録が書かれた目的について学びたいと思います。
A さて、多くのクリスチャンは、黙示録は「難しい」、「分からない」、「怖い」と言って
読もうとしません。ところが、この書を記録した使徒ヨハネは、冒頭で語っています。
「この書の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちは幸い
である。」それは、この書がいたずらに恐怖心を与えたり、脅すために書かれたものではなく、
「キリストによって贖われた者たちを、新しい天と新しい地の中へ、しかも、聖なる都の中に
住む者としてに入れたい。」という主の御心の故に書かれているものだからです。
ですから、書かれた目的は、冷たくも、熱くもない信仰ではなく、はっきりとした、明確な信仰を
主に抱いて「勝利を得るクリスチャン」となって聖なる都エルサレムを相続する者となりなさい。」
(21章7節)ということが、この書の書かれた目的です。
B では、「勝利を得る者」になるには、どのような心構えで行けばいいのでしょうか。
2章と3章では、7つの教会の問題点が指摘されていますが、それらは、私たちもみな関わりの
ある内容です。ですから、「悔い改めなさい。そして、勝利を得る者となりなさい。」と
言われているのです。「勝利を得る者には、これこれのことをしよう」、と言われています。
それは、いのちの書に名が記され、新しい天と新しい地の中に住むという祝福だけでなく、
さらに、新天新地の中にある聖なる都エルサレムの中に住む住人となることが出来るという
ものです。そこでは、創造主と御子である子羊の花嫁として住み、子羊が、その栄光の光と
なって照らされている所です。そこには、もはや死も無く、悲しみも、叫びも、苦しみも
ありません。創造主の幕屋が私たちと共にあり、創造主と共に住み、私たちはその民となるのです。
せっかくイエス・キリストを信じたのですから、ここに行きたいと思いませんか。そのために
必要なのは、悔い改めです。7つの教会に対する勧めは、「悔い改めなさい」でした。
へりくだって悔い改め、勝利した信仰に立つ者は、冠を頂けるのです。しかし、悔い改めが
出来るのは3章までであり、4章に入ったら、患難時代の中に入り、悔い改めも出来なく
なります(9勝20,21)。ですから、今は、悔い改めの出来る恵みの時なのです。
故に私たちはへりくだり、砕かれた悔いし心をもって備えて行くべきなのです。
ところが、クリスチャンの中でも、患難時代の前に引き上げられるから、患難時代を通ることは
ない、と安易に考えている人々がいます。しかも、熱くも、冷たくも無い信仰でも、恵みで天に
引き上げられると考えている人々がいます。しかしながら、黙示録では、13章に獣が現れた時も、
聖徒は確かにそこにいます。又、福音書では、「荒らす憎むべき者」が現れてから、イエス様が
おいでになるとはっきり書いてありますので、クリスチャンが、艱難時代を通ることが無いと
考えている人々は、能天気なクリスチャンです。そのような人々は、目を覚ましておらず、
特に心の備えをする必要も無いと考えている人々です。ですから、自分中心で自分の損得で
生きています。背に腹は代えられないと、簡単に世を選んでいます。それは、キリストに
焦点が合わされていないからです。そういう人々は、「今さら謝れない」と、へりくだろうとせず、
患難時代には、悪魔の手の中に落ちてしまうのでしょう。しかし、私たちは肉を砕いてへり
くだる心、悔い改める心を持って備えて行くべきです。主の前に必要なのは、この砕かれた心
だからです。
C 私たちの生き方は黙示録にあります。黙示録を読む者、守る者は幸いです。
全能主の祝福を知るからです。また、今は、私たちは悪魔の誘惑や攻撃にさらされていますが、
主の剣である御言に信頼して立ち向かうならば、悪魔は退かざるを得ないことを知っています。
悪魔は、後には創造主によって完全に滅ぼされるからです。キリストの血は、私たちに永遠の命を
与え、また悪魔の力を砕くことが出来ます。キリストに在って勝利を得たクリスチャンとして、
大胆な信仰を全うしていきましょう。 |
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