@ 今朝は、「空っぽの器」について考え、今私たちがなすべき事について学びたいと思います。
A さて、8節の御言「見よ、わたしは、あなたの前に誰も閉じることのできない門を開いて
おいた。」は、20年前に与えられた御言であり、その時以来ずっと講壇の正面に掲げられて
います。これは、「空っぽの器に油が満たされる」というメッセージが与えられた時の御言
であり、私たちの教会に対する、主のメッセージです。
そのときから20年間、私たちは空っぽの器となる事を追求してきました。
B では、「空っぽの器」とはどういうものなのでしょうか。
当時の私たちは、空っぽの器となるためには、信仰を妨げる肉を退けていくことだと考えていました。
確かに、私たちの生まれながらの肉は信仰を妨げ、主のことよりも、世を愛する心へと誘います。
そして、肉の心が邪魔をして足を引っ張ろうとします。この地上は、食うか食われるかの世界
ですから、肉を駆り立てるような思いが当り前のようにやって来ます。しかし、それでも
私たちの主を渇望する思いは、主の栄光を見たいと思う使徒たちやジョージ・ミラーさんのように、
全能の主の力を味わって、力強く主の証をしていきたいと願います。また、それを味わえなかったら
信じた甲斐が無いではないか・・・という切なる思いが、私たちの心を奮い立たせ、諦めることなく
ここまで来たのです。ところが、「空っぽの器に油が満たされる」とのメッセージを与えられ、
人間の計算や損得勘定を入れずに、純粋に主に頼ってやっていくと心を定めたときから、分裂が
起こってきました。このメッセージに対して、人間的だと反発し、離れていく人々が
起こってきたのです。「イエス様一本で、生きて行ける訳が無い。そこまで求められたら
やっていけない・・・。」と。あの時から、残る人と去る人が分かれてきました。
それは、ただ一途に主を頼り、聖書の御言葉の通り、純粋な信仰を求めていけないと
考える人々がいたということです。
彼らは去っていきました。この時から、すごい勢いで妨げの霊が入ってきたのです。
悪しき霊にとっては、都合の悪い脅威となる信仰ですから、約1年後に、総力を持って潰しに
かかってきました。しかしそれによって私たちは、悪魔の策略に対して目が開かれました。例えば、
クリスチャンは患難時代を通らないという教理があります。しかし私は、教理ではなく、聖書には
どう書いてあるのかを調べる事にしました。その結果、決して通らないとは言えないこと。むしろ
通ると考えることの方が自然であることが分かってきました。もし、通らないという教理は、悪魔の
策略からきた騙しの教理であると分かれば、主が、目を覚ましていなさいと言われたことも
分かります。もし分からなければ、通らないと安心させられ、何の心構えも無しに患難時代の中に
入ることになり、人々はつまづき、背教が起こるでしょう。これこそ悪魔の策略なのです。今、
それが私たちに明らかにされてきました。私たちの肉が駆り立てられ、それが自分の声のように
思って、したくないことをしてしまうというのも、そこに妨げの霊が働いているからです。
私たちの中にあって駆り立てる妨げの霊が追い出されたなら、肉の妨げが無くなって、
空っぽの器になるでしょう。
C 私たちの肉を駆り立てる妨げの霊が全部追い出されたなら、あおりが無くなります。すると、
主に信頼していく心が、妨げられることなく自由に出来るようになります。こうして全能の主の
力によって、大胆に証をしていく者とされるのです。いよいよ力を受ける時が来ました。ですから、
今私たちがやることは、悔い改めて、妨げの霊を追い出し、空にすることです。
これが、空っぽの器です。 |