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2012年3月18日





『空っぽの器〜今なすべき事〜』


ヨハネ黙示録3章7〜13節




  

@ 今朝は、「空っぽの器」について考え、今私たちがなすべき事について学びたいと思います。

A さて、8節の御言「見よ、わたしは、あなたの前に誰も閉じることのできない門を開いて

おいた。」は、20年前に与えられた御言であり、その時以来ずっと講壇の正面に掲げられて

います。これは、「空っぽの器に油が満たされる」というメッセージが与えられた時の御言

であり、私たちの教会に対する、主のメッセージです。

そのときから20年間、私たちは空っぽの器となる事を追求してきました。


B では、「空っぽの器」とはどういうものなのでしょうか。

当時の私たちは、空っぽの器となるためには、信仰を妨げる肉を退けていくことだと考えていました。

確かに、私たちの生まれながらの肉は信仰を妨げ、主のことよりも、世を愛する心へと誘います。

そして、肉の心が邪魔をして足を引っ張ろうとします。この地上は、食うか食われるかの世界

ですから、肉を駆り立てるような思いが当り前のようにやって来ます。しかし、それでも

私たちの主を渇望する思いは、主の栄光を見たいと思う使徒たちやジョージ・ミラーさんのように、

全能の主の力を味わって、力強く主の証をしていきたいと願います。また、それを味わえなかったら

信じた甲斐が無いではないか・・・という切なる思いが、私たちの心を奮い立たせ、諦めることなく

ここまで来たのです。ところが、「空っぽの器に油が満たされる」とのメッセージを与えられ、

人間の計算や損得勘定を入れずに、純粋に主に頼ってやっていくと心を定めたときから、分裂が

起こってきました。このメッセージに対して、人間的だと反発し、離れていく人々が

起こってきたのです。「イエス様一本で、生きて行ける訳が無い。そこまで求められたら

やっていけない・・・。」と。あの時から、残る人と去る人が分かれてきました。

それは、ただ一途に主を頼り、聖書の御言葉の通り、純粋な信仰を求めていけないと

考える人々がいたということです。

彼らは去っていきました。この時から、すごい勢いで妨げの霊が入ってきたのです。

悪しき霊にとっては、都合の悪い脅威となる信仰ですから、約1年後に、総力を持って潰しに

かかってきました。しかしそれによって私たちは、悪魔の策略に対して目が開かれました。例えば、

クリスチャンは患難時代を通らないという教理があります。しかし私は、教理ではなく、聖書には

どう書いてあるのかを調べる事にしました。その結果、決して通らないとは言えないこと。むしろ

通ると考えることの方が自然であることが分かってきました。もし、通らないという教理は、悪魔の

策略からきた騙しの教理であると分かれば、主が、目を覚ましていなさいと言われたことも

分かります。もし分からなければ、通らないと安心させられ、何の心構えも無しに患難時代の中に

入ることになり、人々はつまづき、背教が起こるでしょう。これこそ悪魔の策略なのです。今、

それが私たちに明らかにされてきました。私たちの肉が駆り立てられ、それが自分の声のように

思って、したくないことをしてしまうというのも、そこに妨げの霊が働いているからです。

私たちの中にあって駆り立てる妨げの霊が追い出されたなら、肉の妨げが無くなって、

空っぽの器になるでしょう。


C 私たちの肉を駆り立てる妨げの霊が全部追い出されたなら、あおりが無くなります。すると、

主に信頼していく心が、妨げられることなく自由に出来るようになります。
こうして全能の主の

力によって、大胆に証をしていく者とされるのです。いよいよ力を受ける時が来ました。ですから、

今私たちがやることは、
悔い改めて、妨げの霊を追い出し、空にすることです。

これが、空っぽの器です。                                         
  
                                        

  
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