@ 私たちが、「地上の残りの生涯を、もはや人間の欲望のためではなく、創造主の
みこころのために生きていく」生き方について、学びたいと思います。
A さて、木曜日の聖研で、「地獄に行ってからでも、救われるチャンスがあった方がいいと
思う人。」という質問がありました。確かにペテロの手紙を見るとき、「死んだ者たちにさえも
福音が宣べ伝えられていた。」とありますから、その方がいいと思ってしまいます。
しかし、地獄で福音を語られても、真実な悔い改めが出来るでしょうか?
なぜなら、悪いことをして、殴られるばかりの状態の中で、「ごめんなさい。」と言わない人がいる
でしょうか?
どんな人でも、目の前の地獄の裁きから救われたい一心で謝るのではないでしょうか。
そのような謝り方は、罪を罪として認めるのではなく、ただ目の前にある苦しみから逃れたい一心で
謝っているに過ぎません。
そんな自分勝手な謝り方を創造主は受け入れられません。ですから、裁きを受ける前に自分の罪を
認め、本気で自分が悪かったと悔い改める事が必要なのです。その悔い改めのチャンスが、今生きて
いるときにあるのです。だから、今生きているときに、どのような心で生き、主に仕えていくかが
大事な事なのです。ですから、「地上の残りの生涯を、もはや人間の欲望のためではなく、創造主の
みこころのために過ごしなさい。」と言われているのです。
B では、「創造主のみこころのために生きる」ことについて考えてみましょう。
ここで先ず考えたいことは、「何故、創造主は、天と地を創られたのか?」という事です。
それは、この地上で、私たちの生き方の選択をしなければならない原点があるからです。そもそも
私たちは、霊的な存在として、天地が創られる前から存在していました。聖書に、「世の創られる
前から選ばれていた。」とありますから。ところが、天で天使たちの造反が起こりました。
そこで、創造主はその天使と、その仲間のものたちを天から追放されました。これが悪魔とそれに
付く悪霊たちです。そこで創造主は天地を創られ、霊的存在であった人間に肉を与え、この地上で
どのような生き方をするのかを見ようとされたのです。この目に見える肉体を取っている期間は
一時です。しかしこの一時を、どのように過ごすのかが大事であり、創造主はそれを見ておられる
のです。創造主に反逆する可能性のある私たちは、案の定、さまざまな不道徳の中にふけって
創造主に反逆しました。ですから地獄で裁かれるのはこの故です。
ところが6節には、キリストは死んだ人々にも、福音が語られたとあります。イエス様がハデスに
行かれてみことばを宣告されたからです。ここから、確かに死んでからでも福音を聞く可能性が
あるように思えます。
しかし、ここでの悔い改めは、心からの悔い改めではなく、審判から逃れるための現状回避にすぎ
ません。だから、創造主は信用しないでしょう。これらのことから、何のための地上かが分かって
きます。この自由な世界の中にあって、自分をかばったり弁解したりせずに、無条件で自分の罪を
認め、心底悔い改めて、イエス様に救いを求め、砕かれた悔いた心を持って、創造主のみこころの
中で生きることなのです。
C 私たちは、地上での残りの生涯を、創造主のみこころの中に歩んで生きたいと思います。
それは、100%罪人であることを認めて、心を砕いてイエス様の罪の贖いを感謝し、人間の
欲望のためではなく、創造主のみこころにかなった生き方をしていくことが、私たちの残りの
生き方です。その生き方には、この福音を宣べ伝えると同時に、自分自身が放縦な生き方を
改めていくことです。主の御心にかなった、聖なる者としての生き方を目指していきましょう。 |