『呪いの性格からの解放』
使徒行伝3章17〜26節
@ 主に従うことを妨げている、自分自身の肉の性質をどのように退けていくべきかを学びたいと
思います。
A さて、使徒行伝を読むと、御霊による力強い主の働きが記されてあり、実際にこのような
ことが、今日も起こるなら、なんとすごいことでしょう。しかし、多くの人々は、もうこのような
時代は終わったといい、聖書が完結しているので必要ないと、強がっています。
しかし、果たしてそうでしょうか?イエス様は昨日も今日もかわらず生きておられます。
ですから、聖書に書いてあることが、今日もそのまま起こるのは当然であり、実際に、ある国では、
一日に4千人の人々が信じ、1年に35万人が信じています。ですから、むしろ、これらが日本の
国に起こらないのは不自然だと思います。私たちは、「聖書に記されていることを信じて救われ
ました。ならば、聖書そのものを全部信じるのは当然です。下手な、教理で誤魔化されたくあり
ません。というのは、私たちはイエス様の十字架の死も復活も目では見ていないのですが、聖書に
記されていることは真実だとそのまま信じて、救われたのです。ですから、使徒行伝に記されて
いることは、今日も起こると信じるのは、自然です。
B では、私たちの教会に起こって来ている事について考えてみましょう。
ほぼ20年前、私たちの教会は、悪霊の存在をハッキリと目で見、体験しました。ですから、
悪霊の働きは、聖書の世界だけのことではなく、今日も変わらず、悪霊は、信者未信者を問わず
人の心に働いて、聖書に対して疑問を抱かせ、反発の心を起こさせて主から遠ざけ、信じる心を
妨げています。特に、私たちクリスチャンに働いて信仰を妨げ、主に仕えていくことが出来ない
ように妨げています。私たち個人に働く悪霊は、それぞれの性格と結びつき、私たちの心を萎え
させているのです。悪霊に憑かれている状態とは、理性を働かすことが出来なくなって悪霊の
言いなりになっている状態です。しかし、多くの場合、憑かれてはいません。
しかし、心のある部分が支配され縛られて病んでいるのです。しかも、それが性格と結びついて
いるために、「自分はそういう者だ」とか、「あの人はそういう人だから」とかで、片付けられて
いる場合が多いのです。だから、自分も気づかないでいるのです。私たちはここから解放され
なければなりません。主に仕えていくことの妨げは、自分の性格に働く妨げだからです。
ところが、自分の性格に働いて来る妨げの霊を追放し、その時は解放されたと思っても、
ものの1時間もしないうちに元の自分に戻ってしまうことが多々あります。その性格は子供の
頃から付き合っているものですから、自然とその性格に戻ってしまうからです。
そこで大事なことは、その性格のままでは、主に通用しないと気づき、自分の意志で断ち切る
ことです。たとい悪霊が出て行ったとしても、性格はそのままあります、ただその性格に働いて、
脅かされることはなくなりますので楽になります。しかし、その性格を放置したままにしたら、
また悪霊はそこに働き、以前より妨げられます。ですから、その性格に二度と悪霊が戻ってくる
ことが無いように、その性格に留まらないことです。それは、むずかしいことではありません。
その生まれながらの性質は、ありのまま認めていくと同時に、その性質に、心を向けていかない
ことです。なぜなら、その性格ためには、主の身代わりの代価が払われているからです。
だから、もうこだわる必要がないのです。自分の意志で離れていく人は、解放されていきます。
C もし私たちが、自分の性格に留まり続ければ、信仰が妨げられ「性格だからしょうがない」
と言って背教するしかありません。しかし私たちは、自分の性格にこだわってまで、主に逆らい
たくありませんし、また主に逆らってまで、自分の性格にこだわりたくありません。
イエス様は、私たちを邪悪な性格から立ち返らせるために、罪の代価を払い、償ってくださった
のです。だから、自分にこだわらない生き方をするのがクリスチャンです。主に役に立つ者
として生きていきたいと思うなら、我を砕いて御霊の中に歩んでいきましょう。 |
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