『リスクを負うこと』
使徒行伝10章9〜29節
@ コルネリオの招きに応じて、異邦人の家に訪問したペテロの決断から、私たちも「リスクを
負う事」を恐れる必要は無いことを学びたいと思います。
A さて、ヨッパに滞在していたペテロは、屋上で昼食の準備が出来るのを待っている間に、
うっとりと夢心地になり幻を見ました。すると天から大きな敷布のようなものが下りて来て、
その中には、地上のあらゆる種類の四足の動物や野の獣たち、這う物、また空の鳥などが入って
いました。そして声がしたのです。「ペテロよ。ほふって食べなさい。」と。しかしペテロは、
「それは出来ません。」と答えました。律法では、汚れた生き物を食べてはならないと定められて
おり、それを守っていたからです。ところが、「創造主が聖めたものを、汚れているなどと
言ってはならない。」という声があったのです。こんな事が三度あって、その入れ物は天に引き
上げられました。この幻は何のことだろうと思い巡らしていた時に、異邦人のコルネリオの使いの
者たちが、その家の戸口に立っていたのです。そのとき御霊は彼に言いました。「何も疑わない
で、彼らと一緒に出掛けて行きなさい」と。しかし、律法では、異邦人の家を訪問することは
禁じられていました。もし彼が行くなら、ユダヤ人から非難されることになり、大きなリスクを
負うことであったのです。
B では、ペテロの決断から学んでみましょう。
彼は、コルネリオの使いから訪問の訳を聞き、翌日カイザリヤに向けて出発しました。そして
コルネリオに会って言いました。「ユダヤ人である私たちは、異邦人の家に訪問することは、
禁じられています。しかし、お招きにあずかった時、少しもためらわずに参りました。どういう
わけで私をお招きになったのか、お話下さい。」と。それは、彼が訪問することは、自分の立場
が不利になり、多くのリスクを負うことだったからです。現に、エルサレムに帰ったとき、
割礼派の信者たちは、このことでペテロを非難したのです(11章2,3)。ペテロはそうなる事を
分かっていました。それでも彼は、創造主の言葉(10章15)を無視せず、さらに、「何も疑わ
ないで行きなさい」という御霊の後押しを頂いて、リスクを負うことを選択したのです。
彼の心の中心にはいつも、主の御心を 第一とする心があったからです。もし、メンツを
恐れたり、非難されることを恐れたりする、臆病な心や自分のこだわりが、自分の心の中心に
あったなら、たとい御霊の後押しがあっても、自分を守る行動を取ったことでしょう。
このペテロの決断は、今の私たちの教会に大きな示唆を与えてくれます。それというのも、
悪霊との戦いが始まってから、リスクを負うことから逃げていく者たちが起こってきたからです。
リスクを負うのは、牧師や伝道者だけにしてください、と。しかし、聖書にその区別はあり
ません。主のために働きたいと思っているのに、リスクを負いたくないと逃げていく方が
おかしいのです。もし、その心のままで患難時代に突入したらどうなるでしょう。
リスクを負いたくないから戦えないと言って・・・「しょうがない」と獣の刻印を押すの
でしょうか。ペテロは、コルネリオの話を聞いて初めて、創造主のご計画とその御心をハッキリと
分かりました。又この事が、律法の縛りから解放される入り口となっていったのです。
C 私たちは、親から受け継いでいる性格を持っています。そこにある自分の弱さ、臆病な心、
傷を負いたくない、自尊心のかたまりなどの性質に怯えたり、それらの性質に捕らわれることを
恐れて来ました。それ故に、自分を守ってリスクを負うことを恐れてきたのです。しかしイエス様
は、これらの、全てのリスクを十字架の上で、負ってくださいました。ですから私たちは、自分の
性格に怯える生き方をする必要は無いのです。イエス様が全てのリスクを負って下さったから
には、私たちは自分の性格にこだわってまで、イエス様に逆らいたくありません。心のど真ん中
にある肉のこだわりを砕くことが、空っぽの器なのです。主は、その空っぽの器に油を満たして
くださるのです。 |
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