『信仰を全うするために』
マタイ24章3〜28節
@ 主の再臨の前に起こる患難時代について考えながら、信仰を全うするために必要な心構えと、
その備えについて学びたいと思います。
A さて、6節で、「戦争と戦争のうわさとを聞くでしょう。・・・これらの事は必ず起こって
くるからです。しかし、まだ終わりではありません。」と言われています。確かに最近、日本を
取り巻く情勢にあっても、一触即発のようなキナ臭い状況が起こってきています。
世界的に見ても、民族間の抗争や、国と国が敵対して立ち上がり、あちこちに地震や飢饉などが
起こってきています。しかしこれらはみな、産みの苦しみの初めであり、必ず起こることですから、
「あわてるな」と言われています。というのは、それらの後に起こる大患難は、世の初めから
現在に至るまで、かつてなく、今後も決してないような大きな患難が始まってくるからです。
その時は、クリスチャンにとって殉教か背教かの分かれ道となるでしょう。ですからイエス様は、
備えをしておくようにと、たとえで語られました。そして、その苦しみの後で、キリストの栄光の
再臨があるからです(30,31節)。
B では、大患難の中を通っていくときの心構えとその備えについて考えてみましょう。
まず、理解しておくことは、キリストの再臨の時に、クリスチャンの携挙があると言うことです。
イエス様は、荒らす憎むべき者が現れた後に、大患難があり、その後で主の再臨と携挙がある
ことを、明確に福音書で語っています。また、パウロのUテサロニケ2:3にも、滅びの子が
現れてから、主の日が来るとあります。ですから、どこにも獣が現れる前に、クリスチャンの
携挙があると明確に書いてあるところはありません。騙されてはいけません。大患難は、獣の
出現と共に始まります。その時には、偽キリストや偽預言者が起こり、数々の大きなしるしや
不思議を行い、人々を惑わします。そして獣を拝まず、従がわない者たちは徹底的に迫害され、
生きていくことが困難となり、死を覚悟しなければならない状況に追い込まれていくでしょう。
自分の命を守るのか、それとも死か。究極の選択にさらされ続けるのです。もし、自分は弱い
から・・・と言ってビビッていたなら、裏切り者となってしまうでしょう。
誰も、「自分は大丈夫!」と言える者はいないのです。ですから、「出来る出来ないではあり
ません。たとえそうでなくても(主の助けが無く、死ぬことになったとしても)、私は、イエス様
に従います!」という献身の心が必要なのです。その心を今も働かせていなければ、その時に
なったら・・・では遅いのです。イエス様の再臨とクリスチャンの携挙は、この獣の出現の後に
あります。ですから、「目を覚ましていなさい。」、「用心していなさい。」と言われている
のです。そこでイエス様は、待っている者の心構えをたとえをもって語られました。
先ず初めに、忠実なしもべについて(24章45〜51)、次に、花婿を迎えに出て行く賢い
5人の娘と愚かな5人の娘について(25章1〜13)、さらに、能力に応じてタラントを
与えられたしもべたちについて(25章14〜30)語られました。これらの譬えから分かる
ことは、私たちは信仰を地に隠し、行いのない信仰では、持っていた信仰さえ取り上げられ、
外に放り出されると言うことです。ですから、本物の信仰が、今を求められているのだという
事です。「信仰は行いと共に働くのであって、行いの無い形だけの信仰は空しいものであり、
死んだものだ」(ヤコブ2章)と言われている通りです。今は平穏な時代であり、「ただ教会に
来ている時だけのクリスチャン」であっても、なんら差し支えなく過ごせるでしょう。
しかし、そのように安易に考えて信仰を地に隠しているなら、その時が来たとき、恐れのあまり
自分の命を守ることを選択し、信仰さえも取り上げられてしまう結果となってしまうのです。
C ひたひたと時が迫って来ているこの時に、私たちは本物の信仰を身につけないといけません。
私たちは、天国入門許可証の手形を頂いていますから、主の再臨が来るまで忍耐し、信仰を
全うすることです。主の再臨のハッピーデイには一瞬のうちに変えられるのです。この福音を
もって、互いに励まし合い、これからやってくる患難時代に備えた、しっかりとした信仰を
身につけていきましょう。 |
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