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2012年10月7日


『役に立つ生き方』



マタイ21章1〜11節


@ イエス様のお役に立つ生き方について学びたいと思います。


A さて、イエス様は、エルサレムに入城する時、ベテパゲから二人の弟子を遣わして言われ

ました。「向こうの村へ行きなさい。すると、ロバが繋がれていて、・・・子ロバが繋がれている

のを見つけます。それらを解いて、わたしのところに引いてきなさい。もし誰かが、何かを言った

なら、『主がお入用なのです』と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるでしょう。」と。

この言葉を普通に考えたなら、黙って他人のロバを解いて連れてきなさい。ということですから、

泥棒しなさいというのと同じ事です。ですから、もし常識を働かせたら、「それは無茶です。」、

「ムリです。」とか言ってしり込みするでしょう。しかし、二人の弟子たちは出かけて行きました。


B では、命じられた通りにした弟子たちのことを念頭に置きつつ、イエス様に従うことについて

考えてみましょう。もし私たちが同じような状況に置かれたとしたら、どうだったでしょうか?

私たちは、良し悪しを考える権利を持っていますから、常識を働かせて考え、「そんなリスクを

負いたくないなー。絶対、気まずいし、恥も掻きたくない」と、すぐに頭でいろいろ考え、自分を

守って尻込みしてしまいます。こうして自分に出来ないと思う習慣が身に付いています。

ですから、これまで、自分の頭に頼って経験出来たことについては、ゴーサインを出しますが、

出来なかったことについては、エーッと尻込みしてしまうのです。しかしイエス様は、見ても

いないのに、ロバが繋がれていると言い、「主がお入用なのです。」といえば、すぐに渡して

くれると言い切れる方なのです。ですから、この方に対しては、自分たちの考えを挟む余地は

ありません。
自分で理解できようが、出来まいが、また、やれるか、やれないかでもなく、ただ

「分かりました。」と従っていくのが、クリスチャンの生き方なのです。
そこに切り替えていか

ねばなりません。人間的に見たら難しいイエス様の指示に、弟子たちは良く従ったと思います。

もし彼らがロバの子を見つけても、途中で気が弱くなって、ロバを引いて来なかったら、彼らは

役に立たないしもべとなっていました。自分の考えや、こだわりに立つなら、役に立たない者に

なってしまうからです。ですから、絶対的権威をお持ちのイエス様に対して、私たちが絶対的信頼

の心を持って聞いていくのは当然のことです。その心の基盤となるものは、「自分を徹底的に

否定すること」(16章24節)であり、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、

ヤハウェなるあなたの創造主を愛せよ。」(22章37節)と言われているように、徹底して主に

従っていく心が必要です。もし、どこまでも頭で考えていくなら、最終的には、自分を守ろう

として、退いてしまいます。例えば、イエス様の権威がどこから来ているのかと質問した

祭司長たちは、「バプテスマのヨハネは天から来たのか、人からですか」と問い返されたとき、

「天からと言えばこうなる、人からと言えばこうなる・・・」などと、どこまでも頭を使って

考えました。その結果は、「分かりません。」と言って自分を守って答えなかったのです。

もし彼らが、メンツもプライドも捨てるなら、正直な心で答えることが出来たでしょう。

そうすればイエス様も彼らに、真実な心で答えたでしょう。私たちは、無きに等しい者です。

ならば、自分の頭に頼らず、真実な心で対応すべきです。


C 私たちは、無きに等しい者だからこそ、イエス様を見上げて一生懸命努力していくべきです。

これしかできないではなく、どこまでもイエス様を見上げて、妥協せずに最善のもの献げて行く

べきです。このように謙遜に、完璧なものを求めて目指して行くなら、主の役に立つ前向きな

信仰が身に付いていくのです。      
                                        

  
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