@ 新しい年の新しい門出に当たって、聖書の基準である御言―「もし生きるなら、主のために
生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。」―を実践していく年にして行きたいと思います。
A さて、私たちの教会は、長いトンネルの中を通ってきました。しかし、足踏みをしてきた訳では
なく、確実に成長して来た教会と言えます。なぜなら、今残されている者たちは、「キリストの
為に、ひたすら生きて行きたい」という心を抱いているからです。具体的には、指導者である
牧師から叱責されたとしても、逃げることをせず、自分の肉から離れ、主に舵を切って信仰の喜び
を味わうものとされてきたからです。
ですから、心を閉じたり反発したりせずに、心を開いて聞こうとしています。それは、この世の
価値観ではなく、聖書の価値観に立って、どこまでもキリストを追求して行こうとしているから
です。
B では、「主のために生き、主のために死ぬ」という事を、日々の生活の中で実践して行くため
には、どのような心を持っていけば良いのでしょうか。
イエス様は12弟子に言われました。「もし誰でも、わたしについて来たいと思うなら、自分を
徹底的に否定して、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(創造主訳)と。
「イエス様について行きたいと思うなら、徹底的に我を砕いて従ってきなさい」、という事です。
この真理は、イエス様から離れて自分の努力で我を砕くことではありません。律法的に考える人々
は、先ず我を砕いて、ふさわしい者になってから、イエス様について行こうと考えます。
しかし、そうすればするほど、ダメな自分を見せ付けられ、「もうダメだ〜」となって、どうにも
ならない肉にとらわれてしまい、キリストを追及するどころではなくなってしまいます。そして、
霊肉共に、共倒れとなってしまうのです。これは大きな考え違いです。考えてみてください。
私たちは、自分がやりたいと思ったことは、たといどんなことがあってもやろうとします。
「やりたい!」という強い心には、それだけエネルギーを注げるからです。同じように、
「キリストに着いて行きたい!」という思いが出てくるなら、自ずから自我を否定するようになる
のです。キリストを思う思いが心を占めていきますから、自分のことは後まわしになるのです。
肉の弱さから来る戦いは、死ぬまで続きます。しかし、「自分の肉を気遣って、イエス様を裏切る
ことはしたくない。だから、人からどの様に思われようとも、キリストを第一にしたい。」という
思いが勝てば、肉は引っ込むのです。この生き方を大胆に追求して行きたい。
たとい、こけたとしても、悔い改めて、もう一回キリストを第一にして行こうという意識を持って
やっていくなら、「主のために生き、主のために死ぬ」という生き方の中に成長していくでしょう。
C 私たちは、何は無くともイエス様に心を向けていきたい。私たちのために、イエス様が罪の
代価を払ってくださったので、一切合切の債務がありません。だから、自分を守って自分のために
生きる必要は無いのです。私たちに赦しを与えてくださったキリストを第一として、キリストの
考え方を、自分たちの判断とし、自分の命をキリストのために差し出していく生き方をして行こう
ではありませんか。
こうした中で、一人が一人の魂のために祈り、魂を救いへと導く年として行きたいと思います。 |