@ 今朝は、主の言葉の真意を汲み取るために、その言葉の裏を汲み取ることについて学んで
行きたいと思います。
A さて、福音書を読んでいくとき、イエス様の言葉の表面だけを受けとめても、その心の
真意を理解することはできません。
例えば、イエス様が、「わたしは天から下って来た生けるパンである。このパンを食べる者は、
いつまでも生きるであろう。」と言われたとき、人々は言ったのです。
「これは、ひどい言葉だ。誰がそんなことばを聞いておられようか。」と。
そして、多くの弟子たちは去っていき、イエス様と行動を共にしなくなったのです(6章)。
しかし、「どうしてそのような場面でそう言われるのだろうか」、「どういう意味で言われて
いるのだろうか」、「どうしてそんな厳しい言い方をされるのだろうか」と、心を遣って
その真意を考えようとするなら、その言葉の裏側にある真意が分かってくるのです。
その顕著な表われが、ラザロの復活です。
B では、ラザロの復活に至る一連の会話や行動を通して、私たちはその裏側にある真意を
どのようにして汲み取っていけばいいのか考えてみましょう。
さて、ラザロが病気だという知らせがイエス様の所に届けられました。
その時イエス様は言われました。「この病は死で終わるものではない。創造主の子が栄光を
受けるためのものである。」と。弟子たちは聞いていましたが、その二日後に
イエス様が、「ラザロが眠っている。わたしは彼を起こしに行く。」と言われたとき、
「眠っているのでしたら、助かるでしょう。」と言ったのです。彼らのこの受け答えは、
イエス様の言われた言葉の意図を汲み取ろうともせず、ただ言葉だけをそのまま受けとめて
いたことが分かります。もし、「この病は死で終わるものではない」と言われたことを心に
留めて考えていたなら、ラザロが死ぬことを知って言われた言葉だと、分かったはずです。
彼らの悟ろうとしないその心に対してイエス様は、あからさまに弟子に向かって怒り、
分からないのか、「ラザロは死んだのだ。」とはっきりと言われたのです。私たちの常識では、
生きているなら、癒すこともできるが、死んでしまったらダメだろう!と考えます。
マルタも同じでした。主とお会いしてすぐ、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、
私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と弟子たちと同じ考えを持っていました。
しかしマルタは主に、「イエス様が願い求めるなら、創造主はどんなことでもイエス様に答えて
下さいます。」と言っておきながら、主が「あなたの兄弟は甦ります」と言われても、
今はもう駄目だろう。死んだ人間が甦るのは終わりの日しかないと思いこんでいました。
しかし、その時でも、主は甦らすことが出来ることを証しされたかったのです。
ですから言われました。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、
たとい死んでも生きる。」と。この御言葉から、そうか!イエス様はここで甦らせようとして
おられるのか、とイエス様の本心に気づかないといけなかったのです。
そこでイエス様は、死んで四日もたって臭くなっているラザロに対して言われました。
「ラザロよ、出てきなさい。」。私たちが、言葉の表現だけを聞いてそれだけを
受けとめるのではなく、イエス様は何をされようと思っているのかなと、ことばの裏側を
考えていくなら、主言葉の真意が理解され、真理が見えてくるのです。
C イエス様の心を理解するためには、イエス様の側に立って物事を見ていけばいい事が
分かります。そのためには、私たちは自分の考えや先入観を引くことです。我を引いて初めて、
新しい考え方が分かってくるからです。そのためには、へりくだった砕かれた心が必要です。
日々の生活において主の心の真意を理解するために、自分の我を引き、主の心の真意を読み取る
ために、言葉の裏側も汲み取って行きましょう。 |