@ 今朝は、究極の真理の二面性について学びたいと思います。
A さて、真理に二面性があることは、聖書の一番最初に解き明かされています。
というのは、人間のスタートは二面性を持つ存在として始まったからです。
まず、イエス様ご自身も、全く相反する真理を語っておられます。ヨハネ伝12章47節後半で
次のように言われました。
「わたしが来たのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。」と。
一方、9章39節では「わたしがこの世に来たのは、さばくためである。」と言われているのです。
私たちの考えは、「真理は一つ、答えは一つ」と数学的に考えますから、
どっちが本当なの?と考え込んでしまいます。しかし、答えは、どちらも真理であり、どちらも
正しいのです。ですから真理には二面性があるのです。
B では、この真理の二面性について考えてみましょう。
先ず、人間の創造のスタートから見てみましょう。人間は創造主によって創られた被造物です。
被造物というものに、主権はありません。全てなされるままで、言いなりであり、反発も、
反抗も出来ません。ところが、もう一面は、創造主に似せて創られたという反面があります。
それは、創造主の持っておられる自立心で、誰にも支配されず、自分の考えで自分のしたい
ことをするという部分を、被造物である私たち人間も与えられているということです。
つまり、私たち人間は、この相反する二面性を持って生きているのです。この矛盾を突いてやって
来たのが悪魔です。悪魔は、「知識の木の実を食べたら、創造主の如くになれるよ。」と、
エバの自立心を悪く刺激して、神のごとく自分の思い通りになれる魅力に取り憑かせました。
ですから、エバは思ったのです。「どうしてこの実だけ食べていけないの?」。
エバは、悪魔の言葉が自分の願望に一致したので食べ、夫であるアダムにも与えました。
こうして、創り主にそむく罪が人に入ってきたのです。すると、創造主に背いた人間が持つ
自立心は、歪んだ自立心に変わってしまいました。自分の思いや考えに固執したり、
自分の目標に突っ走って思い通りに行かないと腹を立てたり、創造主に文句をつけたり、
すねたり、自暴自棄になったりするのです。被造物でありながらへりくだろうともせず、
傲慢になって助言さえも拒むようになるのです。このような二面性を持つ罪人の子孫として、
私達クリスチャンは、どう生きるべきなのでしょうか。自立心がある以上、自分勝手な願望も
起こってきます。また、天下を取るほどの大きなビジョンも、主にあって持つこともあるのです。
そこで、忘れていけないのは、私たちは被造物であるということです。
その立場を心からわきまえ、どこまでも創り主に反抗せず、へりくだった心で祈り心を
もってビジョンを追求していくなら、主は成し遂げてくださるでしょう。
なぜなら、私達の成功は、創造主の栄光となるからです。
C 真理の二面性の中にある私達のところに来られたイエス様は、裁くために来られたと同時に、
救うために来られた救い主なのです。この二面性こそ究極の真理です。
もし私たちに自立心がなかったなら、ただ受け身のままで、イエス様のために、何もしょうとも
しません。それでは、創造主の如く創られた人間の価値がなくなります。イエス様は、私たちの
自立心を創造主のために働かせるように、命を掛けて来て下さったのです。
それは、ただのロボットのために命を捨てるためではありません。
私たちの自立心を正しく回復するためです。すなわち、初めの愛に帰って自由意志を創造主の
栄光のために働かせるようになるためです。ですから、二面性がどんなに凄い真理で
あることかが分かります。どこまでも被造物としての立場をわきまえ、決して逆らわず、
どんな場合も祈りを以て導きを求め、主のために正しく自立心を働かせていくなら、
必ず主は、私たちの主の為の働きを成功へと導いて下さるでしょう。
これこそが、究極のクリスチャンの歩みです。 |