@ 私たちクリスチャンの生きる目的は福音を伝えることにあります。
ですから、そのためにはどのような生き方をしていくべきか、学びたいと思います。
A さて、コリントの手紙全体を通して、パウロは何を伝えたかったのでしょうか。
このコリントの教会には、異邦人にもないような不道徳や姦淫が起こっていました。
又、分派や霊的な秩序を失っている状態など、問題の多い教会でした。
しかし、救われたクリスチャンには共通した思いがあります。それは、未だ救いに預かって
いない人々に、福音を語って行くことです。パウロは、その一点で心を合わせていくようにと
勧めています。ですから、福音を伝えることの妨げとなっているものを退けるようにと
勧めているのです。
B では、福音を伝える妨げとなるものについて考えてみましょう。
コリントの教会は、御霊の賜物をいただいている教会でしたから、それをどのように
用いていくかが問題でした。
例えば、異言の賜物を頂いている者が、その場に未信者が居るにもかかわらず、
自分の満足だけを考えて異言を語るなら、未信者につまずきを与えてしまう場合があります。
だから、そのような使い方は福音のためにならないし、教会の徳を高めることにもなりません。
また、預言の賜物を頂いているからといって、自分中心に語るのではなく、秩序を持って語る
べきだと勧めています。確かに私たちは、キリストの故に律法から解放され、世に対して死んだ
者ですから、何ものにも縛られることはありません。だから、どんな事をしてもいいのです。
しかし全てが益になるわけではありません。
ですから、よく考えて何事も福音のためにすべきです。しかも、私たちは、永遠の救い・
永遠の命という、これ以上はないものを頂いたのですから、もはや地上の残された時間は、
自分のために使うのではありません。私たちは、キリストのために用いるのです。
それは、主が来られた目的のために生きることです。
パウロは、自分の生き方の焦点をどこにおいているかハッキリと語っています。
「私は全ての事を、福音のためにしています。」(9章23節)と。
それが、残された時間を用いるクリスチャンの生き方だからです。ですから、いつでも福音を
語れる状態にして置くのが、私達の具体的な生き方です。もし、自分のことしか考えず、
自己主張ばかりして、未信者にも嫌がれるような、生き方をしていたなら福音を語ることは
出来ません。もし語ったとしても、人に馬鹿にされるだけです。
ですから、福音を伝えていこうとするなら、あえて自らを節制し、福音を語れなくなるような
状況に自分を置くことは止めようとすることでしょう。また、自分の性格や生き方も変えるで
しょう。福音を語ろうとする者は、自ずから、どのような生き方をすべきか分かっている
はずです。しかし、福音を語ろうとしなければ、未信者と変わらない生き方が出来ます。
多くのクリスチャンは、その様に決めている人が多いのです。そうすれば、世との軋轢もなく、
ただ、日曜クリスチャンとして、割り切っていけます。そう言う人は、自分を福音のために
自制する心を持たなくてもいいのです。
C もし、私たちが福音を語ることを止めたなら、私たちは死んだクリスチャンとなってしまう
でしょう。クリスチャンが福音を語らなかったら、喜びもない生涯を送ってしまうでしょう。
しかし、福音を語れば喜びが来るのです。救われる人が起これば、もっと喜びが来ます。
そうすれば、もっともっと語りたくなります。そして、自分を福音のために自制していくこと
でしょう。パウロさんの願いは、そこにありました。
なぜ、厳しくコリントの教会に書き送ったのでしょう。それは、福音の妨げにならないために、
人の益となる選択をすることを願ったからです。私たちは、すべてのことが許されています。
しかし、すべてが益になるわけではありません。だから、自分を制し、福音のためにするのです。
これが、クリスチャンの生き方です。 |