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2011年7月17日



福音のために生きる



第Tコリント10章23〜33節




  

@ 今朝は、クリスチャンの地上での残りの歩みについて学びたいと思います。

A さて、コリントの手紙の書かれた目的は、信者たちの地上における具体的な問題について

語るためでした。パウロは、救われた者の立場について次のように語っています。

「全てのことは許されている。」と。確かに、世に対して死んだ者ですから、

律法や、世の常識とか様々な世の縛りから解放されています。ですから、自由奔放に生きて

いっても良いのです。ところがパウロは、「しかし・・・」と続けます。

「全てのことが益になるわけではないし、全てのことが人の徳を高めるのではない。」と。

それならば、
何を基準にして考え、判断し、行動していけばいいのでしょうか。

B そこで、私たち
クリスチャンが地上で歩む行動の基準をどこに置くべきか考えてみましょう。

パウロは、偶像に供えられた肉に対してどう対処すべきかを具体例にして語っています。

「先ず、市場で売られている物や、不信者の家に招かれたときに出された物は、いちいち良心に

問うことをしないで食べてもよい。しかし、誰かが、これは偶像へのささげ物の肉だと

言ったなら、食べない方がよい。」と言いました。

それは自分自身がどう思われるかという観点ではなく、それを知らせてくれた人と、その人の

良心のつまずきとならないためです。というのは、偶像に供えられた肉は食べない方がよいと

考えているまだ信仰の弱い信者に対して、あえて、つまずきを与えないためでした。

あらゆる生き方において、人をつまずかせる生き方は創造主の前に罪だからです。

パウロは自分自身の権利についても、この判断基準を持って歩んでいることを証ししています。

例えば、「福音を宣べ伝えている者が福音によって生活すべきことを、主は定めておられる。」

けれども、パウロは、コリントのクリスチャンたちに対してこの権利を使わなかった。と言って

います。それは、キリストの福音が、未信者に早く伝わっていくために、自分から

持ち出してでも伝えたかったからです。パウロの心には、自分は福音のために全てのことを

堪え忍んで行くことが出来る心を持っていました。そして、彼は断言しています。

「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて創造主の栄光のためにすべきである。」と。

私たちは、創造主にあって生かされている者です。創造主が私たちの主人ならば、

自分がどう生きるべきなのかハッキリしてきます。
確かに私たちは何をしてもよいという自由を

持っていますが、それは全て、創造主の栄光のためにやっていくべきなのです。

即ち、私たちの行動基準は、創造主です。
即ち、すべてのことを福音のためにしていくことが

創造主のためです。


C 私たちは、
私たちを生かしてくださっている創造主から離れて生きていくことは出来ません。

だからこそ、創造主に焦点を合わせて生きていくべきです。
創造主は、へりくだった心を持って

近づいてくる者を包み込んで、永遠のいのちの中に入れてくださいます。
創造主は愛です。

創造主から注がれているこの愛を、福音のために使っていきたいのです。

愛の故に、あえてつまずきを与えるようなことは止めていきましょう。

愛の故に、
創造主に喜んでもらえる生き方をしていきましょう。

私たちの動機がいつもここにあるなら、自由な心と精神で、創造主に対して生きていくことが

出来るのです。全ては創造主が土台です。創造主に心を向けていきましょう。


そして、福音のために生きていきましょう。
 

                                        

  
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