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2011年7月10日



クリスチャンの生き方



第Tコリント6章12〜20節




  

@ 今朝は、聖霊の宮であるクリスチャンの生き方について学びたいと思います。

A さて、パウロは語っています。

「すべてのことは、私に許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。」と。

律法時代は律法に縛られていましたが、今の私たちは、律法に対して死に、律法から解放されて

キリストを信じる信仰によって生きています。


ですから、アレコレしなければ呪われるというようなものではありません。

ですから、たとい律法にそむく行いをしても、悔い改めることによって赦されます。

では、永遠を失わないから何をやっても良いのでしょうか。そうではありません。

聖書は断言しています。「自分の体は、御霊の宿る聖霊の宮であるから、自分の体を以て創造主の

栄光を表しなさい。」と。

ここに、クリスチャンとしてどう生きていくべきかを考える土台があります。

B では、
「私たちの体は聖霊の宮」であることの意味について考えてみましょう。

自分の体に聖霊が宿っておられるということは、創造主の聖殿であるということです。

この真理は凄いことです。何故なら、旧約時代には、創造主の聖殿には異邦人は入ることが

出来ませんでしたし、きよめられていない者が入ったなら、瞬時に殺されてしまうという

聖なる所だったからです。また、聖霊が宿るということは、旧約時代にはなかった事でした。

しかし、新約になって、イエス・キリストがこの地上に来られ、全ての罪の贖いを成し遂げて

くださった事によって、キリストの御霊が天から送られ、私たちに宿るようになったのです。

だから私たちは聖霊の宮ですから、それを汚してはいけないのです。

もし遊女と交わるなら、その聖殿を汚すことになります。私たちは、イエス・キリストに対して

生きていく生き方を始めた者ですから、キリストを自分の主人とし、キリストがヨシッと

言われることをして行くことです。キリストが喜ばれないことをしてはいけないのは、

聖霊が宿っているからです。
聖霊が宿っている聖霊の宮の故に、創造主の栄光を現す生き方を

していくように、と言われているのです。それは、創造主を主人とする生き方です。


私たちはこの崇高な生き方をして行くと決めて歩み出した者ですが、しばしば問題も起こって

きます。それは、私たちが、崇高な生き方を追求し始めた者たちであっても、弱い肉を

持っている現実があるからです。だから、しばしば肉欲にとらわれてしまい失敗してしまいます。

体の外にある罪は、そのつど主の前に告白するなら、足を洗うことと同じですから赦されます。

ところが、聖殿を汚すことは、創造主を汚すことですから、このような罪は避けるべきです。

その時、主に対する本気度が分かるのです。
主は、罪の肉体を持った者が、崇高な生き方の中に

歩んでいくことがどんなに難しいかご存じです。ですから、本気な心で歩んでこようとする者を

よろこんでくださるのです。それが主を仰ぐ心であり、自分の体で、

主の栄光を表していくことです。


C 私たちは代価を払って買い取られた者ですから、もはや自分が主人ではありません。

創造主が主人です。創造主の御心にそって生きていくなら、私たちは幸いを味わうことが

出来るのです。しかし、罪を犯してしまったなら、心を変えて悔い改め告白すべきです。

この
心を変えるために必要なものは、砕かれた悔いし心です。

この心さえあれば、励みて悔い改めつつ、創造主を第一とした崇高な生き方が出来るのです。
 

                                        

  
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