@ 今朝は、10節の御言の「私が行ったとき、主が私に授けてくださった権威を用いて、
きびしい処置をとることがないようにするためです。この権威が与えられたのは築き上げる
ためであって、倒すためではないのです。」というパウロの言葉から、パウロの本心を
くみ取って行きたいと思います。
A さて、パウロは、今度、三度目にコリントに行ったときには、
「容赦はしない」と言っています。それは、第一の手紙によって悔い改めた者たちも
いましたが、未だ悔い改めようとしない人々もいたからです。そういう人々に対して、
主が授けてくださった権威を用いてきびしい処置をとることがないようにするために、
この手紙を書いたのです。
この権威は、築き上げるためのものであって、倒すためではありませんでした。
コリントの教会は、パウロが生んだ教会でした。そして、彼らは福音を聞いて受け入れ、
素晴らしい救いを味わったにもかかわらず、未だに肉の中に歩んでいたのです。
だから、パウロの厳しい叱責がありました。
B では、コリントの聖徒たちに願っているパウロの本心は、何だったのか考えてみましょう。
パウロは、コリントに行ったとき、「争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、
騒動があったら、神が、あなたがたの面前で、私を辱めることにはならないでしょうか?」、と
言っています。それらの問題は、全て肉の感情から出た争いですから、救いを受けて
いながらも、なお肉の中に生きている信者の姿を現しています。それは、私達の身代わりと
なってご自身の肉を裂き、贖いをしてくださったキリストに、安逸な心であぐらをかいている
姿です。
本来なら、私たちは自分の罪深さの故に、自分のからだを引き裂いて、悔い改める者であった
はずです。なのに、自分の肉の思いを義とし、すねたり、不平不満を現して、へりくだろうとも
せず、いい加減な不信仰な態度で生きているのです。本来なら、チリ灰をかぶって、
自分は「罪人の頭で、生きる価値のない者です。」と落ち込んで当然の者です。
そこまでへこんで初めて、創り主に感謝できるのです。
ところが、落ち込みもせず、途中でごまかし、自分を甘やかして、ごまかして自分の罪深さを
見ようともしません。そういう人は、イエス・キリストの身代わりの上にあぐらを
かいている者です。ですから、信じてからも、なお肉の中に生き続けて行くのです。
そういう者たちには、厳しい処置をしなければなりません。
そこでパウロは、情けない自分を認めてへりくだり、肉の感情を砕いて、悔い改める者に
なるようにと勧めているのです。創り主は、悔い改めた者を必ず哀れんで下さるからです。
パウロの本心はここにあったのです。
C 私たちは、チリ、灰をかぶってひれ伏すだけの者です。そんな者が、もし主に役に立つ者に
なりたいと願うのなら、へりくだってダメな自分を認めて、自分に与えられた自由意志を
用いて、すねて逃げて行く人生ではなく、悔い改めて主に降参して、完全に自分自身を
明け渡して、「従って行きます。」と選択していくのが、自由意志を正しく働かせて行く
私たちの信仰の決断です。これが、パウロの本心からの願いだったのです。 |