@ 今朝は、「信仰(主を仰ぐ心)」について考え、学びたいと思います。
A さて、ヤコブ書を学んで行くとき、「行いの伴った信仰とは何か」が問われます。
例えば、試練についてヤコブは、
「様々な試練に会うときは、この上もない喜びと思いなさい。」と語っています。
何故なら、試練に耐え抜いて良しと認められた人は、いのちの冠を受けるからです。
ところが、私たちは試練には会いたくないし、たとい会ったとしても、苦しむ前に主が助けて
くれるはずだと考えていました。しかし創り主の御心は、私たちが試練に耐え抜くことだと
言われるのです。
ということは、私達が、苦しみに会わないようになることが、御心ではなく、艱難を通して、
私達の信仰の行いが試され、そこから忍耐と練達と希望を学び取ることなのです。
ですから、試練の時にこそ主に近づき、どこまでも主を信頼し、耐え抜いてこそ勝利し、
いのちの冠を受けるのです。私たちの戦いは、福音宣教を妨げる悪魔との戦いでも
ありますから、艱難を避けることは出来ません。
B では、悪魔に立ち向かう信仰について考えてみましょう。
私たちはこれまで、一人一人が悪霊と対峙し、追放する祈りをしてきました。
ところが、全員が追い出せた訳ではないのです。ある人が祈っても、悪霊は居座り続けている
という現実を突きつけられたのです。何故でしょうか? 本来なら、悪霊は被造物であり、
イエス・キリストの御名の権威の前には無力であって、御名の権威によって追放され、
出て行くしかないのです。ところが、宣言する者の心にイエス・キリストを仰ぐ心が無く、
自分の力に頼って、口先だけで追い出そうとしたら、出て行きません。
そんな時、「自分では、ダメだろうな!」とあきらめてしまいます。
まさに、その不信仰な心にこそ、悪魔が働くのです。悪魔に立ち向かうとは、全能主の力と、
イエス・キリストの権威で立ち向かうのです。だから、私達は、負けるはずがありません。
負ける人は、主を仰ぐ心のない不信仰者であり、信仰に伴う実がなく、その信仰は死んでおり、
空しいものです。
ですから、「ただ聞くだけの者ではなく、みことばを実行する者になりなさい。」と言われて
いるのです。それは、本気の信仰です。悪魔は、「教会に行っているし、献金もしているから
それで十分だ!」と騙します。しかし聖書は、形だけの信仰は、空しいと言われるのです。
いつも創り主に近づき、創り主を第一とする人は、主を仰ぐ心を待っています。
その心を持っていれば、いざ、悪魔と立ち向かう場合も、自分の力に頼らず、主を仰いで
立ち向かいます。自分の力には頼りません。私たちは主から離れては何も出来ないからです。
ですから、本気で主に頼り、宣言するなら、悪霊は出て行くのです。
そこに信仰の行いが伴います。
C 「創り主は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」のです。
もし私たちが、世のものに心を寄せ、そこに安らぎを求めたり、友を求めたりするなら、
その人は創り主に敵対する者であり、信仰の力は出てきません。
人が自由意志を持っているからといって、自分の力で何でも出来るわけではありません。
私たちは、創り主によって創られた、被造物にすぎません。
ですから、創り主に頼り、主を仰ぐ心を貫いて、信仰の行いを現していきましょう。 |