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2011年3月13日



信仰(主を仰ぐ心)


ヤコブ2章14〜26節




  

@ 今朝は、「信仰(主を仰ぐ心)」について考え、学びたいと思います。

A さて、ヤコブ書を学んで行くとき、
「行いの伴った信仰とは何か」が問われます。

例えば、試練についてヤコブは、

「様々な試練に会うときは、この上もない喜びと思いなさい。」と語っています。

何故なら、試練に耐え抜いて良しと認められた人は、いのちの冠を受けるからです。

ところが、私たちは試練には会いたくないし、たとい会ったとしても、苦しむ前に主が助けて

くれるはずだと考えていました。しかし創り主の御心は、私たちが試練に耐え抜くことだと

言われるのです。

ということは、私達が、苦しみに会わないようになることが、御心ではなく、
艱難を通して、

私達の信仰の行いが試され、そこから忍耐と練達と希望を学び取ることなのです。


ですから、試練の時にこそ主に近づき、どこまでも主を信頼し、耐え抜いてこそ勝利し、

いのちの冠を受けるのです。
私たちの戦いは、福音宣教を妨げる悪魔との戦いでも

ありますから、艱難を避けることは出来ません。


B では、
悪魔に立ち向かう信仰について考えてみましょう。

私たちはこれまで、一人一人が悪霊と対峙(たいじ)し、追放する祈りをしてきました。

ところが、全員が追い出せた訳ではないのです。ある人が祈っても、悪霊は居座り続けている

という現実を突きつけられたのです。何故でしょうか? 本来なら、悪霊は被造物であり、

イエス・キリストの御名の権威の前には無力であって、御名の権威によって追放され、

出て行くしかないのです。ところが、宣言する者の心にイエス・キリストを仰ぐ心が無く、

自分の力に頼って、口先だけで追い出そうとしたら、出て行きません。

そんな時、「自分では、ダメだろうな!」とあきらめてしまいます。

まさに、その不信仰な心にこそ、悪魔が働くのです。
悪魔に立ち向かうとは、全能主の力と、

イエス・キリストの権威で立ち向かうのです。だから、私達は、負けるはずがありません。


負ける人は、主を仰ぐ心のない不信仰者であり、信仰に伴う実がなく、その信仰は死んでおり、

空しいものです。

ですから、「ただ聞くだけの者ではなく、みことばを実行する者になりなさい。」と言われて

いるのです。それは、本気の信仰です。悪魔は、「教会に行っているし、献金もしているから

それで十分だ!」と騙します。しかし聖書は、形だけの信仰は、空しいと言われるのです。

いつも創り主に近づき、創り主を第一とする人は、主を仰ぐ心を待っています。

その心を持っていれば、いざ、悪魔と立ち向かう場合も、自分の力に頼らず、主を仰いで

立ち向かいます。自分の力には頼りません。
私たちは主から離れては何も出来ないからです。

ですから、本気で主に頼り、宣言するなら、悪霊は出て行くのです。

そこに信仰の行いが伴います。


C 「創り主は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」のです。

もし私たちが、世のものに心を寄せ、そこに安らぎを求めたり、友を求めたりするなら、

その人は創り主に敵対する者であり、信仰の力は出てきません。

人が自由意志を持っているからといって、自分の力で何でも出来るわけではありません。

私たちは、創り主によって創られた、被造物にすぎません。

ですから、創り主に頼り、主を仰ぐ心を貫いて、信仰の行いを現していきましょう。

                                        

  
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