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2011年2月20日



へりくだり空っぽの器を差し出す


第Tペテロ5章5〜11節




  

@ 今朝は、私たち一人一人が、空っぽの器を創造主の御前にへりくだって差し出す時に、

油を注いで下さる
ことを、今一度学びたいと思います。

A さて、5章10節の御言にある「神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで

完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」という御言は、私たちの

心の中に、長い間留め置かれてきた御言です。

そして、実際様々な取り扱いを通して学んだことは、「へりくだる」という一事でした。

その基本は、「砕かれた悔いた心」です。そして、戦いの始まった今こそ、砕かれた悔いた心の

「空っぽの器」を差し出していく時が来ました。

B では、
「空っぽの器」を差し出すとはどういう事なのか、考えてみましょう。

先日、ブドウの実に書かれた、一人一人の御言を読んで、それぞれが信仰によって

立ち上がろうとしていることが良く分かりました。そこで、いよいよ、

「完全にし、堅く立たせ・・・」という御言の幕開けの第一歩かな・・・と、

心に伝わってきました。ところが今回、
具体的な霊的戦いに向った時、自分たちの力が如何に

無力かを思い知らされました。その原因は、それぞれが、「空っぽの器ではなかった」ことに

あります。
もし空っぽであったなら、全能主は油を注いでくださったでしょう。

あのやもめがエリヤの所に持って行った空っぽの器に、油が注がれたようにです。

ところが、今回は無力な信仰の姿をさらけ出しました。

では、その問題はどこにあったのでしょうか。

そもそも、
空っぽの器というのは、「自分の中には、自信を持てる要素は一つもない」と

いう事を認める所から始まります。
ですから、「自分は空っぽだから自分では何も出来ない、

オドオドした弱い者だ。」と思う位で丁度良いのです。ところが悪魔は巧妙にやってきます。

「そんなにオドオドした不信仰で、なにができるのか!」と、脅かしてきます。

そんな時、私たちは何とかして自分の中から信仰を絞り出そうと、躍起になってしまいます。

そして、何とか自分の力で戦おうとしたのです。この霊的な戦いは、自分の肉の力ではとても

戦えるものではありません。それを悟らず、どこまでも自分の中にある力でやろうと

することこそ、傲慢であり、肉の器そのものなのです。神は、このような高ぶる者を

一番嫌われるのです。

ですから「自分には何もありません」と、へりくだり、空っぽの器を差し出すなら、

全能主は油を注いでくださるのです。確かに、空っぽですから弱弱しさを感じるでしょう。

しかし、それで丁度です。へりくだりの意識を与えるからです。

オドオドし、一瞬、臆病になることは敗北ではありません。そこですぐ、全能主を見上げ、

イエスの御名によってやろうと切り替えれば良かったのです。

それが、空っぽの器を差し出すことなのです。


C 私たちは被造物にすぎない者です。それでも自由意志を頂いているが故に、自分に全主権が

あるかのように錯覚して自分の力でやろうとしてしまうのです。

しかし、もし私たちが、頂いている
自由意志を100%働かせて、100%主権者なる創り主に頼って

いくことを選択するなら、主は大いに喜んでくださるのです。
私たちの価値は、霊的な働きを

することにあります。それは永遠に続く働きです。

その時必要なのは、世の知識ではありません。私たちの知らなかった霊的な力であったのです。

だから、
へりくだって霊の力を主に求めていくべきです。この心が勝利につながるのですから。

                                        

  
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