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2009年8月23日





     『ドロドロとした罪』


                 


ヨハネ14章1〜11節






  

@ 今朝は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われたイエス様の御言葉

を考えながら、信仰の確信について学びたい
と思います。

A さて、イエス様は、冒頭の御言葉に続けて言われました。「わたしを通してでなければ、

誰ひとり父のみもとに来ることはありません。」と。ここで、「来ることは・・・」と言われて

いるのはどうしてでしょうか。もし私たちの側から考えるなら、「父のみもとに行くことはあり

ません」となるでしょう。ところがイエス様にとっては、その時にはご自分が父のもとに行って

おり、そこに居るという前提で語っておられるのです。即ち、イエス様は、父のみもとで私たちを

迎えて下さるということです。そのために、イエス様は場所を備えに行くと言われているのです。

ですから、わたしたちが、父のみもとに行く入り口は、イエス様自身にあり、イエス様によって

父のみもとに行くのです。これが真理です。

B では、なぜイエス様によって父のみもとにいけるのか考えてみましょう。

弟子たちは、イエス様が、「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることが出来ない。」と言わ

れるのを聞いて心を騒がせ、不安になりました。「自分たちが信頼していたお方がいなくなって

しまう・・・どうしたらいいのか?」と。そこでイエス様は言われました。「今はついて来ること

ができなくても、後にはついて来ます。心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを

信じなさい。」と。さらに、「わたしは、あなたがたの住む場所を備えに行くのだ。」と

言われたのです。

ですから、天に行ったとき、私たちは無宿人になることはありません。それぞれが父のそばで、

しかも自分の場所で、平安と喜びに満たされて住むことが出来るのです。

ところが、皆が天で主とお会いするとき、平安を持って顔と顔を合わせることができるで

しょうか。もし、主に従う忠実さより、自分のことばかりに心を向けて、自分勝手な生き方を

していたのでは、主のみそば近くに近づくことが、ためらわれてしまわないでしょうか?

しかし、自分のことより、一途に主に信頼した歩みを全うできたら、安心して主のみもとに

近づくことが出来るでしょう。私たちの教会はこれまで、肉の誇りプライドを捨てていくように

導かれてきました。なぜなら、人間のうちにあるドロドロした罪を示され、神の前に心底腐り

きった罪人であることを示されたとき、イエス様の十字架の贖いが私たちにとってどんなに

すごい恵みであるか知らされ、こんな私を見捨てないで赦しを与えてくださったイエス様の心に、

私たちの心が結びつきました。そして、その時から、
人間のプライドなど、糞土のように思えた

のです。そして、心の芯まで腐りきっている人間のために、神の御子が罪の償いのために十字架

で死んでくださった愛は、宝だと確信したのです。ですから、
このイエス様にあれば、天の父の

みもとに行けるのです。もはや外見のちっぽけな自分の義を主張する必要はありません。

また誇れるものなど、何一つありません。ですから、ただイエス様に心を向けていけば

いいわけです。


C イエス様のもとに「道があり、真理があり、命があります。」私たちは、神のみまえに誇れる

ものは一つもなく、ただイエス様だけだと分かったとき、信仰の確信となるのです。主が私たちの

ために住まいを備えてくださっているとは、何と嬉しいことでしょうか。「主よ、あなたのために

生きていきます。」と心から、イエス様のために生きていきましょう。



                                        

  
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