ヨハネ16章23〜27節
@ 今朝は、シンプルな信仰について学びたいと思います。
A さて、私たちが福音を語るとき、救いについてハッキリとシンプルに語りたいと思います。
しかし現実は、複雑で分かりにくい言い回しになっています。何故でしょうか。聖書が複雑
なのでしょうか。いいえ。聖書はシンプルです。難しく感じるのは、私たちが人間的に考えて
複雑にしているからです。
B では、シンプルな信仰について考えてみましょう。23節の御言葉に注目してください。
イエス様は、「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなた
がたにお与えになります。」と約束して下さっています。シンプルに御言葉を受けとめるなら、
「そうか!イエス様のおことば通りに求めていけばいいんだ。」と、嬉しくなります。
ところが、私たちの心から出てくる思いはどうでしょう。「スゴイナー。でも・・・こんな自分
じゃダメかな。これまで祈っても駄目だったし、そんな甘いものじゃないな・・・」と、グチリ、
イエス様のお約束をそのままシンプルに受けとめる事が出来なくなってしまいます。その原因は
どこにあるのでしょうか。結論を言うなら、私たちの罪が、イエス様と単純に結びつくことを
妨げているからです。そもそも私たちは被造物であり、有限の者です。一方創造主は、全能者で
あられ、無限の方です。ですから、人間が、創造主に従い、へりくだることは当たり前のこと
です。
ところが私たちは、創造主である神と競争して勝とうとしているのです。初めの人アダムと
エバは、神の如くなりたいと神に挑戦し、罪を犯し、神から離れました。この競争心こそ、原罪
なのです。
なぜなら、自分が100%罪人であるにもかかわらず、人を自分より低いものにしたくて競争する
のです。そして、自分の内にあるドス黒い思いを棚に上げて、人を見下し、見栄を装って生活して
います。実に白く塗った墓です。心の奥底にあるものは、誰にも分かりません。
しかし、神は私たちの心を全部ご存知です。そして、創造主の前にその全ての行いが精算される
とき、全てが暴露されるのです。ですから、原罪を持っている私たちは、たとい外側をかっこよく
振舞っても、神の前には通用しません。そこで、このような私たちに主は言われます。
「自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たち
をきよめてくださいます。」(Tヨハネ1章9節)。私たちは罪を犯し、過ちを犯す人間です。
ですから、逃げずにありのままの自分を認めるしかありません。私たちは弁解も言い訳も出来ない
者です。だから、ただ謝るだけです。このへりくだりの心こそ、人間にふさわしい態度です。
そして、「気持ちを切り替えてやらせてもらいます。」と砕かれた魂を表わせば、神は私たちを
軽しめられないのです。イエス様は、私たちの原罪のために、死んで下さったのですから、
私たちは生きていけるのです。ですから、この現実を認めて、シンプルな心で生きていけばいいの
です。
C 私たちが神の前に隠せるものは何一つありません。言い逃れの出来ない罪人です。神の御子が
身代わりとなって命を捨ててくださらなかったら、ただ地獄の裁きに合うしかない恐ろしいもの
です。この罪を見過ごしにすることはできません。心の奥底にあるドロドロした罪を正直に見る
時、神の子が、私たちの罪の代価を十字架に釘つけにして下さったことがどんなに感謝なことで
あるか分かってきます。その時、神の恵みを味わうのです。「罪人である私にはイエス様がいて
下さる。」と、ただへりくだる心こそ、シンプルな信仰なのです。この心を持って主を見上げて
いきましょう。
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