@ 今朝は、イエス様が、「マルタとマリヤに対して憤りを覚え、心の動揺を感じられた。」
というのは、なぜなのか?を考え、私たちの信仰の在り方を学びたいと思います。
A さて、マリヤとマルタはイエス様の所に使いを送り、兄弟ラザロが病気であると知らせました。
この一家は、イエス様が特別に愛しておられる家族でした。しかも彼らは、イエス様を霊的に
敬い、救い主と信じている家族でした。しかし、イエス様は、「この病気は死で終わるだけのもの
ではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」と言われ、
直ぐには立たれませんでした。そして4日の後、ラザロが死んでしまってから出かけられたの
です。案の定、ラザロは死んで墓に納められ四日も経っていました。
B では、イエス様を出迎えたマルタとマリヤとの応答から、イエス様が憤られた原因を探って
みましょう。イエス様を出迎えたマルタとマリヤは同じことを言っています。「主よ。もし、
ここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と。これは、イエス様は病気を
治すことが出来る、と信じている者にとっては、ごく普通の言い方です。
しかし、それは「生きているうちであって、死んでしまったらダメだ。」、という思いが入って
いる言葉です。正にこの考えは、私たち多くのクリスチャン達が抱いている判断です。ですから、
イエス様が何故遅れてきたのか、どんなお考えを持っておられるのか、ということなどを探ろう
ともしませんでした。あくまでも生きている間だけと完璧に決めつけていたからです。それは、
マルタの応答からも分かります。「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われたとき、
「私たちは、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」と答えた
のです。マルタは終わりの日の甦りを信じており、今この時点で、生き生きした肉を持って
よみがえるということを想像できませんでした。イエス様を神の子キリストと信じていても、その
常識の世界から抜け出せなかったのです。それはマリヤも同じでした。またそこにいたユダヤ人
たちも同じであり、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことは出来なかった
のか」と言う者もいたのです。この人の考えに縛られ、イエス様の霊の心を知ろうとしなかった
頑なさに、イエス様は憤られたのです。「何でもお出来になるイエス様への柔軟な信頼の心を
もって聞き、それをそのまま信じようとしないのか・・・」と。私たちも自分の先入観を切り
替え、素直に聞こうとしなければ、イエス様の心を理解することは出来ません。
しかし人間の性質は、どこまでも自分の考えを尊重し、主張したいのです。これを続けていく
なら、いつまでもイエス様の心を理解できず、成長できません。ですから、自分の考えや常識に
とらわれない柔軟な心が必要なのです。死んで四日も経ち、腐っていたはずのラザロが生き返り、
墓から出てきたのです。常識をはるかに越えた奇蹟を見ることが出来たのです。
C 今回の北海道旅行においても言えることです。初めは、決めた時間に縛られていで、緊張した
旅が続いていました。ところが、柔軟な心で時間を使おうとした牧師のリードの故に、計画にない
楽しみやアイディヤを味わい、豊かな思い出深い旅行となったのです。私たちの教会は、常識を
越えたビジョンを達成したいと祈っています。私たちに理解できない分野がたくさん出てくるで
しょう。しかし、イエス様に信頼し、また牧師に信頼して柔軟な心で聞いていくなら、主は、
見たことのないもの、味わったことのないものを見せてくださるでしょう。この心で、主の栄光を
共に見ようではありませんか。 |