『恵みの下にあるクリスチャン』
ロマ書6章1〜14節
@ 今朝は、恵みの下にあるクリスチャンとして、その真理にふさわしい新しい歩みについて
学びたいと思います。
A さて、ロマ書は聖書の中の聖書と言われているように、救いの真髄が明確に記されています。
その目的は、信仰に始まり信仰に進ませるためであり、聖徒が、信仰の従順に導かれていくためです。
この6章を学ぶときの鍵は2つあります。それは、1節と15節の質問あります。次のように言われて
います。「恵みがまし加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」(1節)、
「恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。」(15節)と。
パウロは、これらの問いかけをしつつ、「新しい歩み」の中に進むことを教えているのです。
B では、二つの問いかけの意味を考えながら、恵みの中にある者の生き方について考えてみま
しょう。パウロは二つの問いかけに対して、「絶対にそんなことはありません。」と強く否定して
います。何故なら、私たちはキリストと共に死んだ者であり、死んだ者には、もはや律法の支配は
及びません。即ち、イエス・キリストを信じた者たちは、律法の下にはないということです。
律法の下にないということは、律法によって裁かれないということですから、「我々を裁く裁判所は、
もうない」ということです。これは、イエス・キリストの故に頂いた恵みです。ところが、もう
「裁判所はないんなら、何やってもいいじゃないか!」「だから罪を犯してもいいだろう。」と
考えるのは大間違いです。それは、キリストのいのちと引き替えに頂いたこの恵みを、ないがしろに
することだからです。私たちは、むしろ律法(決めごと)の下から引き出されたことが分かったら、
「もう分かりました。あなたのために役に立つ生き方をしていきます。」と。考え方を新しくして
いくのです。これがキリストにあって新しい生きていく生き方なのです。私たちは、キリストに
あって新しい生き方をするために救われたのです(6章4節)。この新しい生き方とは、御霊という
主人に従って素直に生きていくことです。これまでの自分のやり方、考え方にこだわるのは、
古い肉であり自我ですから、砕いていくべきです。そして、「もう裁判所はない、だからもはや罪に
定められることは決してない。」という真理を受け取り、この生き方を実践して行くのです。もし
受け取らないなら、いまなお自分の力に頼って生きていく生き方に留まることになります。即ち
自分の出来ることだけやるという旧態依然の歩みになってしまいます。ですから、受け取り、百%
自我を砕いて、御霊に合わせていく生き方をしていくのです。
C 私達の信仰は実践です。そして、新しい歩みの主人は御霊ですから、私たちは、御霊という
主人に聞き従うことを通して、肉の行いを殺し、自分のこだわりを捨てていくのです。それによって、
神の子供としての新しい生き方を始めていけるようになるのです。御霊は、いつも傍にいて私たちを
助けてくださいますから、全てのことを働かせて益としてくださる主を信頼し、信仰から信仰へと、
新しい歩みをしていきましょう。 |
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