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2009年5月31日





『罪に定められない!』


                 


ロマ書8章1〜17節


                   
@ 今朝は、ロマ書8章1節の「キリストイエスにある者が、罪に定められることは決してありま

せん。」という凄い真理を覚えつつ、クリスチャンの新しい生き方について学びたい
と思います。

A さて、クルスチャンは「律法の下にはありません。」ので、もはや裁きの下には無く、創り主に

よって裁かれるということは決してありません。こんな凄い恵みの中に置かれているのですから、

キリストによる救いの確かさに驚かされます。しかしながら、日本の法律の下にあっては、当然

ルールを破ればその刈り取りをしなくてはなりません。私たちは、この地上にあって過ちを一つも

犯さないほどの厳格な人間ではありません。道路に唾を吐くこともあれば、赤信号で突っ込んで

しまうこともあります。細かく挙げたらキリがなく、みんな警察に引っ張られて投獄されること

でしょう。まして、私たちの行動や心までも一切をご存じである神の御前にあって、厳格に神の

律法を運用されたなら大変なことになります。全てが明らかなのですから、そこには一切の

目こぼしはありません。たった一つでもルールを破れば問答無用で裁かれ、報いを受けねばなり

ません。私たちは誰もがみんな罪ある者であり裁かれる者なのです。にもかかわらず神は、

御子イエス・キリストに私たちの罪を負わせて処罰することによって、「一切お構いなし」という

道を開いて下さったのです。


B では、命の創り主から、「一切の罪を問われることが無い」者とされたクリスチャンは、

この地上でどのような生き方をしていけばいいのでしょうか。キリストを知るまでの私たちは、

罪の奴隷であり、したくない悪を行ってしまう者でした。そんな罪人の一切合切をキリストが

負ってくださり、私たちの罪を十字架に釘づけにし、私たちの罪を帳消にして下さったのです。

だから、私たちの人生は、キリストのために生きる人生に変えられるのです。すなわち、キリスト

と共に死んだものとして、私が生きているのではなく、キリストが私の中で生きてくださるから

です。それは、私たちが、肉に従って歩まず、御霊に従って生きていく新しい生き方をして行く

ためです。では、自分自身が死んだということをどのようにしたら理解できるのでしょうか。

心でそのまま受け入れていくだけです。御言葉をそのまま受け止め信じていく謙虚さを持つことが

大切です。確かに、キリストと共に死んだ自分と、今なお肉にあって生きている自分の二つの自分が

います。しかし、今生きている自分は、肉を持って生きてはいますが、キリストと共に死んだもの

として、信仰によって生きているのです。それは、常にキリストを信頼し、キリストに依り頼んで

生きていく自分のことです。これが、「肉にあって生きていても、肉に従って生きない」という

ことです。こうして、御霊に導かれて生きていくのが、クリスチャンの生き方なのです。

C 私たちの信仰の土台は聖書です。ですから、世の考えで生きていくのではなく、聖書の考えで

生きていくのです。私たちは、進化論に立つ学者や知識人と言われる人々の考えを鵜呑みに

すべきではありません。彼らは、無神論を土台として考えているからです。

ですから、
まず、聖書の記述が正しいという土台に立って考えるべきです。私たちの命は丸ごと

創造主によって造られたもので、私たちが創った部分は一つもありません。ですから、自分の手で

触れるもの、目で見えるものだけが信じれると、傲慢な考えに立ってはいけません。

どこまでも遜り、聖書は100%正しく信頼して良いという土台に立って考えて

いくべきです。クリスチャンである私たちは、この勇気ある新しい生き方を貫いていきましょう。
 



    


                                        

  
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