『しばらくの苦しみの後で』
マタイ16章13〜28節
@ 今朝は、イエス様が、「ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない。」と
弟子たちを戒められたその真意を考え、そこから、私たちの信仰のあり方を学んでいきたいと
思います。
A さて、イエス様は弟子たちに、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と尋ねられ
た時、ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えました。この時、ペテロが、
イエス様を人間的レベルではなく、天のレベルで見上げた事を主は喜ばれ、「このことをあなたに
明らかにしたのは、天にいます私の父です。」と言われて彼の霊的理解力を喜ばれました。
ところがイエス様は、すぐその後で、「わたしがキリストであることをだれにも言ってはなら
ない。」と、口止めされました。なぜでしょうか?ご自分がメシヤであることを証するために
来られたのに!どうしてこんなことを言われたのでしょうか?
B その真意について考えてみましょう。イエス様は、ペテロが告白したときから、ご自分が
「苦しみを受け、殺され、三日目に甦る」ことについて話し始められました。すると、ペテロは
イエス様に言ったのです。「そんなことがあなたに起こるはずがありません。」「あなたは、
神の子キリストだからです。」ところがイエス様は彼に向かって、「下がれ。サタン。あなたは
わたしの邪魔をするものだ。神のことを思わないで人のことを思っている。」と叱られました。
ペテロは、イエス様を「神の子救い主」と思っていましたので、「そんなことがあるはずが
ない。」と思ったのです。しかしそれは、イエス様の働きの邪魔をする、サタンの言葉だったの
です。というのは、「イエス様が、人間の罪の代わりとなって苦しみを受け、救い主になることは
いけません。」と言うのと同じだったからです。すなわち、ペテロが「イエス様は神の子キリスト
です。」と吹聴することは、イエスをイスラエルの解放者として祭り上げようとする力が強く
なり、十字架まで行けなくなってしまうからです。イエス様は、この世の解放者ではなく、
「苦しみを受け、命を捨てるために来られたメシヤであった」からです。ですから、弟子たちに
言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、
そしてわたしについて来なさい。」と。私達にも、苦しみの道を求められているのです。
実にイエス様は、苦しみを受けるために来られたのです。そのことを否定する言葉は、サタンの
言葉であり、イエス様の働きを邪魔するものだったのです。神の子なら、決して苦しみに遭わない
という考え方は、間違っています。
C このことは私たちにも、言えることです。すなわち「クリスチャンが苦しみに遭うことは、
おかしい」というのはサタンの言葉であり、救い主はアブラハムに対し、モーセ、ヨセフ、
ダビデに苦しみの道を通されました。そして、「たとえそうであっても」主に従う砕かれた
悔いた心を求められたのです。それは、自分の力ではなく、主の仰る通りにやっていこうとする
信仰を学ぶことであり、信仰を実践することだからです。私達の教会は、様々な苦しみを通って
きましたが、それは、ただ主の手によって祝福を受ける道だったのです。それを、おかしいという
のは、サタンの言葉です。主は、「しばらくの苦しみの後で、不動の者とする。」とあります
から、イエス様と同じ道を歩んで来たことは、正しいことだったのです。なぜなら、兄弟達も、
同じ苦しみの道を通ってきたからです。ここから、「主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」
という御言が、始まるのです。 |
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