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2008年10月5日








『たとえそうでなくても』



マタイ221522







@ 今朝は、論戦を挑んでくるパリサイ人たちに対し、イエス様がどのような心で応答されて

いるのか、またそこから、
私たちがどのような心で信仰を実践していくべきかを学んでいきたい

思います。

A さて、15節から40節までの間で、パリサイ人、サドカイ人、律法の専門家という

ユダヤ社会を代表する人々が、立て続けにイエス様に質問をしにやって来ました。それは、言葉の

揚げ足を取り、罠にかけるためでした。これに対し、イエス様がどのように答えておられるかを

考えながら、私たちも、未信者たちに対して、どういう心で向かっていくべきか考えてみたいと

思います。それは、議論で向かうことはせず、真理の心をもって向かうことが、信仰で歩んでいる

クリスチャンの生き方の秘訣だと思うからです。

B では、具体的に、御言から学んでみましょう。まず、パリサイ人は言いました。

「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないこと

でしょうか。」。彼らは、神がアブラハムの子孫に与えられたこの地に対して、なぜ私たちが

納税しなければならないのか、と考えていました。だから、「納税すべし」と言われたら、

律法の書を無視するのか、とイエス様への反感は増幅したでしょう。

一方、「納税しなくてもよい」と言うならば、ローマの権威に反旗を翻す者として訴えられた

でしょう。実に、ニッチモサッチモいかないようにしようとする悪意に満ちた質問でした。

このような彼らに対して、主は論戦するのではなく、カイザルの刻印のあるデナリ硬貨を取り、

言われたのです。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」と。これは、

ローマに対しても、律法に対してもかなっています。イエス様は頭を使って言い負かそうとされず、

心で真理を語られたのです。一般に、頭で生きていこうとする人は、負けたくない精神で自分を

守ろうとします。この勝たねばならないという考えは、世間一般では、常に求められることです。

しかしイエス様は、頭に向かって語らず、その心を汲み取って、心に向かって真理を語りかけられ

ます。すなわち、勝つ負けるが大事なことではなく、神が求めておられるのは
真理の心であるから

です。35節からの律法の専門家の質問に対しても言えます。それは復活はないと考えている

サドカイ人に、この世での状態には縛られず、天の御国の真理に基づいて語っておられます。

又、人は死んでも復活するのだと。それは、「アブラハムの神」と言うのは、アブラハムが天で

生きているからであり、死んで終わりではなく、復活はあるのだと言うことです。ここでも

イエス様は心で対応され、心に語っておられます。私たちも、論戦に勝つために語るのでは

ありませんから、御国の真理を心に語り掛ければいいのです。


C 私たち人間は、生まれながらにして自分中心で自分を守る生き方が身に付いています。

しかし、言い返しても、自分を守っても、しょうがないのです。それは、ガラテヤ2:20節で

言われているように、もはや自分の命ではないからです。さらに、詩篇51編16節には

「全焼のいけにえを喜ばれない」、とありますが、19節では「全焼のいけにえを喜ばれる」

とあります。これは、自我の砕かれた心を持つ前と持った後の違いを語っています。

即ち、我を砕かなければ、神に喜ばれないということです。それは、「たとえ自分の思い通り

でなくても」、主を信頼する砕かれた信仰の実践を求められているからです。

私達は、心を尽くして主を愛する生き方を求められているのです。











    


                                        

  
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