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2008年10月12日







『主に従う心』


マタイ23章25〜36節






@ 今朝は、「偽善の律法学者、パリサイ人たち。」と言われたイエス様の厳しい叱責に目を

留め、その意味を考えて信仰の実践に適用して行きたい
と思います。

A さて、イエス様は、律法学者、パリサイ人たちに「忌まわしい偽善者たち」とはっきり

断罪しました。これは、指導者として自認しているユダヤ人たちから、あきらかに反発を買う言葉

です。それでも福音を語るときには、「あなたは罪人です。」とはっきり言わなければなりません。

ところが、今日の時代では、先ず聞き易い言葉で心を開かせ、伝道していこうとする傾向にあり

ます。なぜなら、多くの人が反発して心を閉じてしまうからです。確かに今は、平和だ、安全だと

言って、救いを求めようとしない時代です。ところが、世の終わりの時が来たら、滅びを目の前に

して悠長なことは 言っておられません。私たちの現実の姿は、時代に関係なく、パリサイ人たち

と同じ罪人であり、偽善者です。ですから、人の罪に目をそらすことはできないのです。

B では、律法学者、パリサイ人の偽善はどこに起因していたのか考えてみましょう。

彼らは、外見だけを装う白く塗った墓だと言われています。人前では敬虔なそぶりをして長い祈り

をし、また見せるために献金をして、その実は強欲で、損得勘定で動き、神の真理にフタをして、

人々を神から遠ざける者たちだったのです。このような者たちこそ偽善者であり、この偽善は神が

一番嫌われるものだったのです。なぜなら、神は、心を見られるからです。では、この偽善は

どこから出てくるのでしょうか。それは、彼らの目線が、いつも自分の目線であったからです。

言い換えるなら、神の側に立って霊的な判断をせず、自分の目線で、自分勝手な肉の考えで判断し、

肉の心を満足させる見方をしていたからです。これこそ偽善なのです。

しかし、神から見る見方は、自分の肉の見方を切り捨てて霊的なものの見方をすることです。

これを、日常生活の中で実践していくのです。そうすれば、教会に霊的一致が起こって来る

でしょう。それは、神を第一にし、神の義を第一に追求していく生き方だからです。

ところが現実生活では、私たちは人と人との肉の関係の中で判断し、霊と肉をごちゃ混ぜにした

玉虫色のものの見方、判断をしているのです。私たちは、他人がそのような判断をしている時、

それが間違っていることは良く見えても、自分の場合になると見えなくなります。

そんな時に、もしそれを指摘されたなら、その肉を砕いて神から見て判断して切り替えて行くべき

です。信仰とは、その行動の実践です。それは人に見せるためではなく、主に従う心こそが信仰

だからです。しかし肉はその切り替えしを嫌い、出来ないと言うでしょう。だからこそ、それを

砕いてやっていくところに、信仰の価値があるのです。

このように、霊の目で見るのが当たり前になって来たとき、前進して行くでしょう。神がその

生き方を喜んで下さるからです。


C 
伝道は、行動を起こさないと始まりません。失敗がたくさんあるのは当然です。

それでも諦めずに、主に頼って行動していくのです。できないと思う自分の肉を砕いて切り替えて

行くいき方こそ「主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」生き方です。
これこそが、霊的な

目で見た見方であり、偽善者の目線、すなわち自分の目線から離れて行く生き方なのです。  




    


                                        

  
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