『主にあって不可能は無い』
ヨハネ6章5節〜14節
@ 今朝は、私たちクリスチャンが、信じたときから、真理の二面性の中に歩み始めたのだ
ということを、考えて見たいと思います。
A さて、クリスチャンの持つべき確信とは、「物の見方・考え方の土台」に対する確信です。
それは、真理の二面性にあります。そして今回、ヨハネの福音書を読んで、やっぱり真理の
二面性はイエス様から始まっていると確信しました。
B では、五千人の給食における二面性について見てみましょう。イエス様は、着いて来た大勢の
群集に、何か食べ物を与えたいと思われました。そこでピリポに言われました。
「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」 それに対してピリポは、
「二百デナリ(約二百万円)のパンを買って来ても、五千人に分け与える事は不可能でしょう。」
という否定的な反応をしました。またアンデレは、あえて子供の持っているパンを引き合いに
出して、「こんなに大勢の人々に対して、何の足しにもならない。」と、彼もまた否定的な応答
をしました。確かに状況は、すべてが不可能に見えました。しかし主は、「神にとって不可能は
無い」ことを明らかにしようとされていたのです。実は、これまでイエス様は、「ご自身にとって
不可能なことは一つも無い」ことを、何度も明らかにしておられました。例えば、カナの婚宴に
おいては、ぶどう酒が無くなってしまったとき、水がめに汲ませた水をぶどう酒にされました。
また、「人は死んだら終りだ」と考えているニコデモに対しては、御霊によって新しく生まれ
変われる可能性を示されました。さらに、カペナウムの役人の息子の病を癒され、サマリヤの女
には、井戸の水を飲んでも直ぐ乾くが、二度と乾かない水を与える方としてご自身を明らかに
されました。確かに私たちは、アンデレのように、五つのパンと二匹の小魚では、5千人以上の
人々に対して何になるのか、と考えます。
そして、この常識を働かせて「ダメなものはダメだ。」と考えることは当然だと思っています。
しかし、イエス様は、その不可能を一瞬のうちに可能とされるのです。
この「不可能が可能となる。」という事実こそ、新しい真理の一面です。ですから、私たちは
イエス様を信じてから、古い世界の真理と新しい世界の真理の二面性の中に生き始めたのです。
これこそ真理の二面性ではないでしょうか。この事実は、福音書のいたる所に出てくるのです。
それは、私たちがイエス様を信じたときから、私たちの人生に始まりました。だから、この真理の
二面性をへりくだって認め、主にあって可能な真理に目を留めて、信じる方向に心を向けるの
です。
C 私たちの世界は、どこまでも不可能な現実があります。それは、間違いありません。しかし、
私たちは、その現実を認めつつも、イエス様にあっては、「不可能は無い」という真理のもう一面
に立つのです。これが、信仰です。ですから、たとえダメな自分と限界のあるこの世界を見ても、
「神にとって不可能は無い」と、主に在って考えていく生き方が、当たり前となっていくように、
信仰の確信を身につけていきましょう。 |
|