@ 今朝は、世に勝つ者とは誰でしょう?と言われる主の心を学びたいと思います。
A さて、聖書は断言して言います。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる
者ではありませんか。」と。確かに私たちの戦いは、世とその背後にいる悪魔との戦いです。もし
この戦いに対して、人間的な方法や手段で対応するなら、必ず失敗するでしょう。しかし私たちの
教会は、人間的な方法手段によって道を切り開いていくのではなく、どこまでも全能の主により
頼み、主がして下さるのを待ち望んでいくという信仰の道を選択してきました。
それは、「主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」という御言に立ったからです。そして、
今回、この信仰の歩みが世でも通用することを味わいました。
B では、ただ主に信頼して世に勝つ信仰について考えてみましょう。多くの場合、私たちは、
「最後まで主に信頼して行こう。」という志を持って事を始めていきますが、さまざまな困難に
ぶつかって来ると、初めの志がどこかに吹っ飛んでしまい、目の前に迫って来る困難を何とかしな
ければ・・・と自分で考え始めるのです。そして、手っ取り早く問題解決をするために、世のコネ
を使ってその恩恵を受けることが賢い方法だと考えるようになります。その結果、道が開かれると、
「主が開いて下さった。」と言いながら、自分を誇るのです。確かに、世の力を借りるなら、事は
スムーズに運び、プレッシャーもストレスも少なくなるでしょう。しかしそれでは、霊で始まった
ことを肉で仕上げる事になってしまいます。その結果、主の栄光が褒め称えられるよりも、人間の
力が褒め称えられるということになってしまうのです。どうしてこんな結果になってしまうの
でしょうか。一言で言うなら、霊と肉をごちゃ混ぜにした信仰の判断をするからです。この事は、
日々の信仰の歩みにも言えることです。というのは、たとえ「主のために生きて行こう。」という
志を持ったとしても、自我を否定されたり、叱られたり、自分流を受け入れてもらえないと、つい
感情がついて行けないからと反発して逃げ、主の役に立たない者となってしまうからです。
それは、砕かれた悔いた心が無いからです。このへりくだった心がなければ、霊と肉をごちゃ
混ぜにした、わがままなクリスチャンとなって、主の役に立ちたいという志はあっても、現実は
自分のための働きとなってしまうのです。それは、しっかりと自分の逃げ場を確保し、無条件に
自我を明け渡そうとしていないからです。しかし私たちは、長い時間をかけて訓練され、
「自分じゃない、主だけだ。」と悟らされ、「砕かれた悔いた心でいいんだ。」と、へりくだる
ことを学んできました。この心こそ、「主に信頼し、主が成し遂げてくださる。」のを待ち望んで
いく信仰を確信するためであり、又、世に勝つ信仰を身に着けるためでした。
C 今回私たちは、主が全て先立ってして下さったことを味わいました。思いもしなかった人々を
も動かし、事を成し遂げて下さったのです。私たちが時間さえ主に委ねたなら、主は時至って必ず
成し遂げてくださる方なのです。実に、「主が成し遂げてくださる。」という信仰で間違いが無い
ということを確信しました。これからは、外に向かって働きを始めていく時です。この信仰の確信
をもって、前進していきましょう。 |