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2008年4月13日





『人の子であり、神の子である』
                                    







マルコ3章20節〜35節




       

@ 今朝は、イエス様が私たちにとって、より身近に感じるお方として学びながら、主が

どういうお方であったのかを知り、幸いを覚えたい
と思います。

A さて、「人の子」であり、「神の子」であるイエス様が、どんなお方であったかを知る

ことは、興味深い学びです。しかも、抽象的ではなくリアルに知ることは、信仰の確信に

繋がっていきます。特に、ヨハネ黙示録では、私たちを花嫁として受け入れて下さる

イエス様を見ていく時、より親密にイエス様を知るきっかけになります。

B では、聖書から見て行きましょう。マルコ3章では、「イエスの身内の者たちが来て、

イエスを連れ戻しに出てきた。」とあります。それは『気が狂ったのだ。』という人たちが

いたからです。何故、身内の者が連れ戻しに来たのでしょうか?それは、イエス様をただの

大工の子として見ていたからではないでしょうか。だから、「気が狂っている」という噂を

聞いて連れ戻しにやって来たのです。ところが、聖書の初めには「神の子イエス・キリスト

の福音のはじめ。」とあり、いきなり神の子としてのイエス様を紹介し、その神の子として

の働きを記録しています。ですから、私たちは、聖書を読み始めたとき、当初は、イエス様

を私たちとはかけ離れた特別なお方と見ていました。しかし、イエス様がバプテスマを

受けられたとき、天から声がして、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを

喜ぶ。」とあり、この「あなた」という呼びかけは人に対するものであり、人としての

イエス・キリストに父なる神は、「愛する者だよ。」と言われているのです。もし初めから

神の子そのものであるなら、あえて、このように言われる必要はなかったでしょう。

さらに、神の子としての働きを始められたとき、荒野でサタンからの誘惑を受けました。

もし、神の子そのものなら、被造物であるサタンから、どうして誘惑されねばならなかった

のでしょうか。これらのことは、イエス様が百%「人」であると同時に、百%「神」である

という二面性を持っておられたからではないでしょうか。病を癒し、嵐を鎮められ、悪霊を

追い出し、罪を赦されるという権威は「神の子」としての権威です。一方、空腹を覚えら

れたり、「この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。」とか、「わが神、わが神、どうして

わたしをお見捨てになったのですか。」と言われているイエス様は、人間としての弱さを

持つ「人の子」を表わしています。このイエス・キリストを、一面だけで理解することは

できません。しかし、
真理に二面性があることを受け留める時、理解できます。これは

矛盾ではありません。イエス様が人の子となって来られたのは、「人の罪の贖いのために、

人間の罪を身代りとなって受けて下さるためでした。ですから、あなたは、人の子を救い主

として信じますか。」と、私たちに問いかけられているのです。

C 
このように神の子としての主が、より身近に感じるとき、主は、私たちに「神の御心を

行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と言われた御言に感動を

覚えます。これは、神が私たちを「主の身内と見てくださる。」ということです。


何と有り難く嬉しいことでしょうか。「御心を行う人」とはどういう人ですか?

「それは、へりくだって主の救いを感謝し、喜んで従う者」のことです。その者を主は

身内であるが故に、愛をもって恵み、祝福して下さるのです。こんな幸いにあずかっている

ことを感謝し、天に召されるまで主を喜びつつ証しして行きましょう。





    


                                        

  
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