ヨハネ11章30節〜44節
@ 今朝は、ラザロの死に対する人々の絶望に関して、主の憤りと心の動揺は何であったのか、
又イエス様が私たちに願っておられる信仰は何であったのか学びたいと思います。
A さて、ラザロが病気だという連絡が入ったとき、イエス様は「この病気は死で終わるもの
ではなく、神の栄光のためのものです。」と言われました。それからなお二日とどまられて後、
「ラザロを眠りからさましに行くのです。」と言われて旅出たれたのです。イエス様が到着
されたとき、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていました。そこで、イエス様は、
出迎えに来たマルタに言われました。「あなたの兄弟はよみがえります。わたしは、よみがえり
です。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを
信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と。次に、マリヤにも
同じように言われました。また一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になったとき、
イエス様は霊の憤りを覚え、心の動揺を感じられたのです。
B では、その訳について考えてみましょう。結論から言うならば、それは、彼らの不信仰に
対する憤りでした。というのは、彼らは、「主がここにいてくださったなら死ななかったのに。」
とか、「盲人の目を開けた方が、あの人を死なせないでおくことは出来なかったのか。」と
不満をもらしたからです。彼らは病を癒やして下さるお方としては信じていました。しかし、
それ以上のこと、即ち、死んだ者をも生き返らせることが出来るお方だとは、考えもしません
でした。それは、「目に見えることだけは信じても、これはダメだろうと思うことには、
信じようとしない身勝手な信仰心」だったからです。それに対してイエス様は、「可能性がある
から信じるというのではなく、可能性がなくても信じるのが当たり前なのだよ、父は全能な
お方なのだから。」と、憤りを感じられたのです。イエス様ご自身は、「わたしは父の業を行う
ために来ました。」と、非常に純粋な心で父なる神に信頼していました。それは、「父とわたし
は一つだ。」と言われたように、信頼することは当たり前だったからです。ですから、ラザロの
甦りを通して、信じれない世界も信じれることを明らかにしたかったのです。主は私たちに、
目で見ることのできない世界を信じることを求めておられます。それ故に、霊の憤りは、
「信じることは当然であり、信頼するのは当然ではないか」という純粋な主の憤りの心だったの
です。
C 父なる創造主は、無から有を創り出され、「海に満面の水のみなぎらせることの出来る」
お方です。そして、イエス様が父に対して、純粋に当たり前のこととして信じ信頼していく中に
おられたように、私たちも同じような信頼の感覚の中に入り、そして、自らの自由意志で、
「そうしていきます。」と、目に見えない世界にも自分の意志を使って信仰によって踏み出して
いくのです。このように、創造主の栄光を現していきたいという私たちのビジョンを表していく
ために、大胆に一歩を踏み出して行こうではありませんか。そうすれば、信じる者に働く、
全能の神の御力を見ることが出来るからです。 |
|