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2007年8月26日






 
  


   『空っぽの器に油が満たされる』




ヨハネ14章1節〜12節





@ 今朝は、「空っぽの器に油が満たされる。」ということの真意について学んでいきたい

思います。

A さて、「空っぽの器に油が満たされる。」という学びは、今に始まったことではありま

せん。それは、15年前に示されたときから始まっているからです。確かに当初は、ただ聖霊の

満たしのことだと考えていましたが、さまざまな取り扱いと学びの中で、その意味するものが、

そのことだけではないことが分かってきました。それは、自分自身を空っぽにしなければ、

イエス・キリストの中に委ねきっていくことが出来ないことがハッキリとして来たからです。

自分の我の中に留まらず、キリストの中に飛び込んで行くことこそ、油が満たされることであり、

イエス様ご自身が願っておられること
だからです。

B では、自分自身を空っぽにしてキリストに飛び込むとは、どういうことかを考えてみま

しょう。このことは、ユダヤ人が、イエス様を創造主から遣わされたメシヤであると信じること

につながっています。というのは、当時の一般的メシヤ像は、王となって他国の支配から解放

してくれるダビデのような人物と考えていました。ところがイエス様は、「わたしは、わたしを

遣わした方のもとに去って行く」と言われ、当時の人々にとっては訳の分からないメシヤ像を

語っておられたからです。イエス様は、彼らが考えている王としてのメシヤではなく、民の為に

死んで甦えるメシヤとして信じることを願っておられたからです。このことを理解するには、

自分たちの先入観を捨てる必要がありました。同じように私たちも、飢え渇いた空っぽの心さえ

持てば、油の満たしがあると考えていましたが、そうではなく、まず自分自身の我を砕いて

空っぽにし、イエス様に委ねきっていったときに、油の満たしにつながってくるのだと分かって

きました。イエス様に信頼するとは、まず、私たちがイエス様にドボンと浸かる事から始まり

ます。しかし、空っぽにするのはイヤだ、自分の頭を使いたい、自分の考え・判断でやりたい、

自分の感覚でやりたい・・・等々思っていたら、弟子たちと同じように、「主よ、どこにおいで

になるのですか。」と、いつまでもイエス様の真意をつかむことができず、挙句の果てには、

「私たちに父を見せてください。」と訳の分からないことを言うことになるのです。

それに対して主は言われました。「こんなに長い間あなた方と一緒にいるのに、あなたはわたし

を知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。」と。
イエス様が言われている

内容を、自分の考えを働かせず空っぽにしてそのまま受け止め、そのわざを見ていくならば、

イエス様の真意が見えてきます。しかし、どこまでも自分の考えに立つなら、見えるものも見え

なくなります。ですから、自分をゼロにし、百%主の側に立つと心を定めるなら、主の考え方、

物の見方が分かってきます。それがキリストに飛び込むという事なのです。


C イエス様は言われます。「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりも

さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」と。それは、イエス様が父

のもとに帰っていかれると、聖霊を送ってくださるからです。ですから、自分に頼らず百%主に

信頼し、空っぽになって主の中にドボンと入って行けば、聖霊に満たされて、大きなわざを行う

者とされるのです。





    


                                        

  
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