@ 今朝は、「イエス・キリストのことばにとどまる。」とはどういうことか、その意味に
ついて考え、学びたいと思います。
A さて、30節には、「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを
信じた。」とあります。しかし、イエス様は、その信じたユダヤ人たちに言われました。
「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの
弟子です。・・・また、神から出た者は、神のことばに聞き従います。あなたがたが聞き従わ
ないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」と。この時から、ユダヤ人の多くが
イエス様から離れていき、ついには、彼らはイエス様に石を投げつけて殺そうとしたのです。
こうしてイエス様にとどまったのは、イスカリオテ・ユダを除いた11人の弟子たちだけでした。
その違いはどこにあったのでしょうか。何が阻んでいたのでしょうか。
B では、イエス・キリストのことばに留まることを邪魔したものは、何であったのか考えま
しょう。その答えは、目に見えるイエス様ご自身にありました。彼らは言います。「彼は、
ヨセフとマリヤの子ではないか。」、「メシヤはガリラヤからは出ない。」、「まだ50歳にも
なっていないのに、アブラハムを見たと言うのか?」と。そしてついには、イエス様を悪魔呼ば
わりし、石を投げつけて殺そうとしました。彼らは、どこまでも知識で理解しようとしたから
です。この「頭で考えて理解したい」、という思いこそ私たち人間の罪の原点です。アダムと
エバは、悪魔の巧みなことばに騙され、創造主に聞き従うところから離れ、罪を犯しました。
彼らは、自分の考え通りしたいと頭を使い、真理が見えなくなったのです。それ以来、頭で
考え、知識で理解しようとする性質が私たち人間の本質となってしまいました。しかし、
「聞き従う」ということは、人間の本来の姿であったのです。ですから、「神から出た者は神の
ことばに聞き従うが、出ていない者は聞き従わない」と言われたのです。ところが、多くの
ユダヤ人が「これはひどいことばだ。」と言ってイエス様から離れていきました。しかし、
そんな状況の中で、ペテロは「主よ。私たちはあなたから離れて、誰のところに行きま
しょう。」と告白し、頭や知識ではなく、心で受け止めて、イエス様の側に立ったのです。
また、癒された盲人も、ユダヤ人から脅かされても確信に満ちて言いました。「もし、あの方が
神から出ておられるのでなかったら、何も出来ないはずです。」と。彼も心で信じるところに
立ったのです。確かに、神から出た者は、神の許から離れたら安らぎがなくなることを直感で
理解できますから、離れることは出来ません。また、私たちは、「創造主によってイエス・
キリストのものとされた者」ですから、どんな試みを受けても、イエス様の許に留まり続け
させられているのです。
C 私たちは、キリストにしっかりと捕えられています。だったら、安心して自分の意志で、
「神に聞き従う」と定めようではありませんか。自分の意志で決めるなら、それは奴隷ではあ
りません。奴隷でないなら自分で決めたことに対しては責任が伴ってきます。ここに、人間と
して生きていく本来の人間らしさがあります。私たちの命は造られた命ですから、創られたお
方に聞き従うのは、当然のことです。この真理に立ち戻りましょう。 |