『自分と創造主との関係が当たり前になる』
マルコ15章22〜32節
@ この聖書の箇所は、イエス様が十字架に付けられたときの人々の反応が記されています。
これまでのイエス様に対する群衆の反応は、こんな殺伐としたものではありませんでした。
むしろイエス様を慕い追っかけていたのです。なのに、どうしてこんなむごい言葉を浴びせたの
でしょうか。
A さて、民衆にとっては、イエス様は、ローマの圧政からの希望の人でした。ところが、ことも
あろうに犯罪人の一人として殺されるという絶望的な状況に陥ったのです。彼らの失望感は、
「たった今、十字架から降りてもらおうか。我々は、それを見たら信じるから。」という言葉と
なって現れたのです。こんな気持ちは、私たちの信仰生活の中にもあります。それは、祈りが思い
通りにならないと不信仰になり、つい不満をぶつけるのと同じです。ですから私たちも、彼らの
中にいなかったとは言えません。これは、クリスチャンになっても尚、利害で生きているクリス
チャンの情けない姿であり、自分中心で身勝手な罪人の姿そのものです。しかし、イエス様は、
一言も責められず、そんな私達のために、祈られたのです。
B では、このイエス様の心にあったものは何だったのでしょうか。
イエス様は、捕えられる前に、深く悲しみ「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」
と祈られました。然し、最後には、「あなたの御心のままをなさってください。」と立ち上がら
れたのです。このイエス様の覚悟こそが、祈りの勝利です。もしイエス様がこの勝利に立って
おられなかったなら、弟子は逃げ去り、群衆からは罵倒されるという追い打ちの中で、彼等の口
車に乗っていたかも知れません。しかし主は弁解されるどころか、彼らのことをいたわり、
「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からないのです。」と、祈られたの
です。それは、主のお心が人にではなく、父なる創造主に対して向けられていたからです。
この祈りの勝利こそ私達への模範です。それは、いつも創造主との太いパイプを持ち、いつも
創造主に目を向けておられたからです。ですから私たちも、自分と創造主との関係が当たり前の
事実となり、心にスポンと入るなら、「あなたの御心をなさってください。」と言えるように
なり、「創造主に信頼するのが当たり前」、「聞いて行くのが当たり前」、「創造主の御心の
中を歩むのは当たり前」となってくるのです。
C イエス様は、ゲッセマネに行けば裏切り者のユダがやって来ることは分かっていました。
一方、人としてのイエス様の心には十字架に対する恐れもありました。然し、祈りによって確信を
得、信念に立ち勝利を得られたのです。それによって、たとえユダが来ようとも関係ありません
でした。人間的な駆け引きを持たず、純粋に創造主に心を向けておられたからです。私たちも
イエス様と同じ心で、創造主の御心を全うしたいのです。その為に、自分と創造主との関係が
当たり前となって心にドンと入るように、真剣な心で求めて行きましょう。
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