@ 今朝は、私たちの命が、完璧な機能を持つ愛の最高傑作であることが分かれば、創り主に
対して、確信を以って従って行けるという信仰を学んでいきたいと思います。
A さて、「今日か、明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」
(ヤコブ4:13)という考え方は、起業家だけでなく、一般の人々の心の中にもある考えです。
と言うのは、自分の計画や考えで仕事を決め、自分の意志で、自分の人生を歩んでいけるものだと
考えているからです。ところが、聖書にはこのように書いてあります。「あなたがたには、明日の
ことは分からないのです。あなたがたの命は、しばらくの間現れて、消えてしまう霧に過ぎま
せん。」と。実は、自分の人生は自分の考え通りに生きていけると思っていても、実は自分が
知らないうちに誕生し、自分の意志に反して去っていく現実があるのです。まさに、朝露のように
起き、太陽とともに消えていく霧のようです。だからこそ、こう考えるべきなのです。
「主の御心ならば、私たちは生きていて、このことを、又は、あのことをしよう。」と。然し、人間は、
自分に頼って生きていこうとしているのです。
B では、「主の御心なら・・・」と生きていく生き方について考えてみましょう。先ず、私たちが
ハッキリと心に入れなければならないのは、私たちは創られた被造物であり、創られた方の主権の
下にある者だということです。ところが、この事がはっきり分かっていないクリスチャンが多いの
です。聖書に対して懐疑的な部分を持ち、疑問を抱きつつ、断定などできないという、不信仰な
立場に立っているのです。そのくせ、確信があると思い込み強がっています。その強がりが、懐疑論者
の入り口となり、自分に頼っていく生き方となっているのです。しかし私たちは、確信に立って不動
の者となり、完全になる事を目指しています。なぜなら、信じる者に働く全能者の力を証ししたい
からです。そして、主はそのために、「空っぽの器に油が満たされる。」から始まって、着々と私たちを
訓練し、導いてくださいました。それは、創造主を知り、創造主在っての自分であることを認める
ことから始まりました。私たちが創られた被造物であることは、私たちの精巧な体の仕組みを
見れば一目瞭然です。百分の一ミリの毛細血管が体中に張り巡らされ、完璧な機能をもって
創られているが故に、ほんの一点でも傷がつけば、死んでしまう繊細なものです。こうして生きて
いれるのは、創造主の計り知れない技術力があるからです。決して自立して生きている者ではあり
ません。ですから、このお方に対して傲慢になれるでしょうか。ただただへりくだるのみです。
へりくだるとは、自分がそう思えないからと自己主張するのではなく、創造主の考えをへり下って
受けていくことです。自分の考えで、出来る出来ないではなく、「主が全てです。」と、なりふり
構わず従っていくことです。それが、主の御心の中に生きていくことなのです。
C 私たちの命が、創り主によってこんなに精巧に造って下さっていることが分ると、
創り主って、「すごいナー!」と嬉しくなります。すると、この方に全てを任せて行けばいいん
だと確信が持てます。この確信こそが、私たちの信仰です。
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