@ 今朝は、6節の御言にポイントを置いて、クリスチャンたちが王とされ、祭司とされることに
ついて考え、学びたいと思います。
A さて、聖書は、イエス・キリストの再臨から、即新天新地に焦点が合わされていると
思われます。この新天新地は、全く新しいもので、千年王国は、この地上での延長です。
私たちは、千年王国でも王となり祭司となる(黙示20:6)のですが、私たちが新しく朽ちない
体を持った新しい天と地に於いても永遠に王となり、祭司となる(黙示22:5)のです。
祭司とは、創造主と被造物の世界の仲立ちをする者です。即ち、直接主に近づくことの
出来ない方たちとの仲立ちです。(第一ペテロ2:5)
こうして私たちは今、栄光の主の側に付く者として置かれているのです。イエス・キリストの
血によって罪から解放されたからです。この私たちに対して、使徒ペテロは言います。
「主は、人には捨てられたが、創り主の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも
生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを
通して、創り主に喜ばれる霊のいけにえを献げなさい。」(第一ペテロ2:5)と。
B では、霊のいけにえを献げる生き方について考えてみましょう。先ず私たちは、自分の
命のルーツを知るべきです。しかし私たちは、自分の命がどこから来たのか知りません。
それなのに、知っているかの如くに、初めの生物は単細胞生物であろうと想像し、その
アメーバーから徐々に進化したと想像し、“偶然にたまたまできた”という世界が、
自分たちのルーツだと思っているのです。ところが、私たちの体の仕組みを見たとき、
偶然では存在できないことが分かってきます。というのは、体がDNAという設計図に
基づいて形成されていることが明らかとなったからです。その設計は偶然ではあり得ません。
誰かが考えださなければ出来ないことです。このことからも、私たちは偶然にタマタマ、
というチッポケな者ではなく、設計図を書かれた偉大な方によって組み立てられた者だという
ことが分かってきます。ところが、私たちは、この方を無視し、感謝もせず、ましてやこの方の
意図を理解して生きていこうとは考えてもいませんでした。自分のことだけを考え、自分勝手に
生きてきました。まさに、それは組み立てられた方にとって不用な物であり、破棄される者
です。
ところが、私たちを組み立てられた方は、この破棄されるべき怒りの器を修理するために
エンジニアを送って下さいました。その方が、イエス・キリストです。イエス・キリストの修理は
完全で私たちを王とし、祭司として下さるのです。ですから、この方に対し、霊のいけにえを献げるの
です。それは、地上の価値観ではなく、どこまでも主との関わりに於いて考え、判断し、創り主の
役に立つ者として生きていくことです。
C 私たちは、祭司の務めをしていく立場にありますから、そこに焦点を合わせて生きて
いきましょう。しかも、聖なる都に入っていく者であり、そこで、創り主と共に栄光の中に
住まう者です。その意識の中で判断し、生きていきましょう。 |