「本気で従っていく者の心」
マタイ8章18〜22節
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@ 今朝は、律法学者と弟子に対する対応から、主に“従って行く者の心”について、学んでいき
たいと思います。
A さて、イエス様に従って行きたいと言う、二人の人がイエス様の所にやって来ました。一人は
律法学者です。もう一人は、すでにイエス様の弟子になっていた人です。彼らに対するイエス様の
対応は、同じです。先ず律法学者に対しては、「人の子には枕する所もありません。」と、地上的な
メリットは何も無いが、それでもついて来れるのかと、彼の本心に切り込まれました。他方、
「先ず父を葬むることを許してください。」と言った弟子に対しては、「わたしについて来な
さい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」と、直ちに従うことを求められました。
このそれぞれに語られた言葉を、彼らがそのまま受け入れて従うことは、実にむずかしいことで
す。もし、自分の出来る範囲だったら従いたい・・・≠ニ思うことについては、直ぐに行動が
出てくるでしょう。しかし、“従いにくいこと”を求められた場合、自分の考えや情が邪魔をし
て、従うことが難しくなってくるのです。それでも、もしイエス様に信頼する心を持っている
なら、それを超え、「それでも従います。」となっていくはずです。信仰とは、ここまで求められて
いるものなのです。
B では、主に対して“信頼する心”とはどういう心でしょうか。先ず身近なところから考えて
みましょう。私たちは人に好意を持ったとき、その人の心を喜ばせたいと思います。そのためには
自分の心を開き、心のエネルギーを使っていきます。したくないのにイヤイヤするのとは、違いま
す。ですから、相手はその心の行為を感じて、喜びに満たされるのです。ましてやイエス様はそれ つく
以上の方です。創り主は、私たちを見捨てず、御子を十字架につけるほどまでにして、創り主との
断絶を回復してくださったのです。このお方に好意的になるなら、この方と心が一つとなって、
つく
創り主に喜ばれる事をしていきたいと、心のエネルギーを使っていくようになるのです。それは、
また「私はキリストと共に死にました。」という明確な自己否定の心にもなるのです。私たちは、
この世には、なにも心を打ち込めるものは無いことを味わってきました。しかし、そんな私たちの
心をイエス様が解決してくださったのですから、この方のために生き、生涯を打ち込んで行きたい
と思うのは当然ではないでしょうか。この好意的な開かれた心があれば、「従います。」と心が
定まり、イエス様への信頼が増し、言われたことをそのままやっていきたいと思うのです。
たとえ人々の非難があったとしても、従いたいという心が、優先するのです。本気で従って行こう
とする者には、自己否定と創り主への好意的な心がセットになっているのです。
つく
C 私たちが打ち込めるものは、創り主への心しかありません。ですから、この方に、ただ聞いて
従って行くだけです。その心を、私たちの心の中に入れていきましょう。
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