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          2005年9月11日


       
「本気で従っていく者の心」

マタイ8章18〜22節




@ 今朝は、律法学者と弟子に対する対応から、主に“従って行く者の心”について、学んでいき

たいと思います。

A さて、イエス様に従って行きたいと言う、二人の人がイエス様の所にやって来ました。一人は

律法学者です。もう一人は、すでにイエス様の弟子になっていた人です。彼らに対するイエス様の

対応は、同じです。先ず律法学者に対しては、「人の子には枕する所もありません。」と、地上的な

メリットは何も無いが、それでもついて来れるのかと、彼の本心に切り込まれました。他方、

「先ず父を葬むることを許してください。」と言った弟子に対しては、「わたしについて来な

さい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」と、直ちに従うことを求められました。

このそれぞれに語られた言葉を、彼らがそのまま受け入れて従うことは、実にむずかしいことで

す。もし、自分の出来る範囲だったら従いたい・・・≠ニ思うことについては、直ぐに行動が

出てくるでしょう。しかし、
“従いにくいこと”を求められた場合、自分の考えや情が邪魔をし

て、従うことが難しくなってくるのです。それでも、もしイエス様に信頼する心を持っている

なら、それを超え、「それでも従います。」となっていくはずです。
信仰とは、ここまで求められて

いるものなのです。


B では、主に対して“信頼する心”とはどういう心でしょうか。先ず身近なところから考えて

みましょう。私たちは人に好意を持ったとき、その人の心を喜ばせたいと思います。そのためには

自分の心を開き、心のエネルギーを使っていきます。したくないのにイヤイヤするのとは、違いま

す。ですから、相手はその心の行為を感じて、喜びに満たされるのです。ましてやイエス様はそれ
      
つく
以上の方です。創り主は、私たちを見捨てず、御子を十字架につけるほどまでにして、創り主との

断絶を回復してくださったのです。
このお方に好意的になるなら、この方と心が一つとなって、
つく
創り主に喜ばれる事をしていきたいと、心のエネルギーを使っていくようになるのです。それは、

また「私はキリストと共に死にました。」という明確な自己否定の心にもなるのです。私たちは、

この世には、なにも心を打ち込めるものは無いことを味わってきました。しかし、そんな私たちの

心をイエス様が解決してくださったのですから、この方のために生き、生涯を打ち込んで行きたい

と思うのは当然ではないでしょうか。
この好意的な開かれた心があれば、「従います。」と心が

定まり、イエス様への信頼が増し、言われたことをそのままやっていきたいと思うのです。

たとえ人々の非難があったとしても、従いたいという心が、優先するのです。
本気で従って行こう

とする者には、自己否定と創り主への好意的な心がセットになっているのです。


                                                  つく
C 私たちが打ち込めるものは、創り主への心しかありません。ですから、この方に、ただ聞いて

従って行くだけです。その心を、私たちの心の中に入れていきましょう。


                                    



     
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