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「受け取る信仰」

ガラテヤ3章




@ 今朝は、“受け取る信仰”について学びたいと思います。


A さて、この手紙は、主に、ガラテヤにいるユダヤ人クリスチャンに対して書かれています。

割礼を受けなければ救われないという考えが入ってきて、それに同調する者たちが起こってきた

からです。その背後には、律法を守っていると自負し、誇りとしているエルサレムのユダヤ人クリス

チャンの非難がありました。同時に、それを受け入れる下地も彼らにありました。それは、異邦の地

で生活しているユダヤ人たちは、妥協して律法を守っていないという不安と、後ろめたさを持って

いたからです。そんなとき、パウロから、「律法によっては義と認められず、ただキリストを信じる

信仰によって救われる。」という福音を、聞いて喜んで受け入れました。ところがしばらくすると、

「行いが必要ではないのか」と考えるようになって不安になり、割礼を受けなければ救われないと

いう考えに同調していくようになったのです。これに対してパウロは、律法は、罪を指し示すもの

であって、行いによっては救われないことを明らかにし、キリストに導くための養育係にすぎない

事を語りました。そして、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと力説したのです。

このガラテヤ人の過ちの中に、私たちも入り込み、自分で何とかしなければ・・・、と思ってしま

う同じような危険性が私たちにもあるのです。これは、神様の御心ではありません。


B では、私たちは、どのような信仰の姿勢を持って歩んだらいいのでしょうか。
 
 それは、私たちが、
「キリストを信じれば、救われる」という、神に提示された救いを、そのまま

受け取って救われたように、最後まで神の御言を受け取る生き方を続けていくことです。


この“受け取る”生き方を妨げるものは何でしょうか。

 まず第一に、幼子のようにそのまま受ける勇気が無いので、行いに頼ろうとすることです。

ですから、「信じているだけでいいのかな。自分で結果を出さなければ。」となって自分の行いに

頼り、信仰から離れていくのです。第二に、人は、さまざまな苦しみの中で、自分の弱さを経験し

すぎて、不信仰が心を占め、受け取ろうとしない人です。この信仰に対する不安は、私たちの信仰

を妨げ、弱腰にし、「受け取りたい、欲しい、“けれど”」、となって、受け取れなくなるのです。

御霊で満たして下さいと祈っても、「けど」と自分の弱さを見て弱気になる人は、永久に受け取る

ことは出来ません。何故なら、その人は、「たとい自分の面子を失っても、霊的なものは失ないたく
                                ほんそう
ないという捨て身の信仰がない」からです。故に、自分の身を守ることに翻弄する人は、自分の

体裁ばかりに気を配り、信仰を貫くことができないのです。信仰とは、自分の行いに頼ること

ではなく、「神の言葉を、そのまま受け取っていくこと」だからです。
 


 C
 神様の御言をそのまま受け取る心、それこそが信仰です。「自分は罪人のかしらです。

だから、私はただ恵みをそのまま受け取るだけです。」、というへりくだった心、それが信仰です。

私たちはそれによって救われたのです。「律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰に

よって義と認められるためです。」これが、クリスチャンの信仰です。
  

                                    



     
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