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          2005年5月29日


「慈しみと厳しさを分けたもの」

ローマ11章13〜36節


@ 今朝は、神からの“いつくしみ”と“きびしさ”を分けた原因は何かを考え、私たちに必要

なことは、神のことばをヘリ下って「そのまま受け取っていくことだ」ということを学んでいき

たい
と思います。



A さて、神の“いつくしみ”と“きびしさ”とは、正反対のものです。それを分けたものは何で

しょうか。その答えは、レビ記26章にあります。そこには、神に従って恵みにあずかった者の祝福

と、神に聞き従わず、神の契約を破った者たちへの厳しさが記されているからです。その分かれ目

は、神に対する“信仰”の有無です。
イスラエルの民は、不信仰の故に切り落とされました。

そこにあるのは厳しさです。私たち異邦人は元来、神から遠く離れた者で、もともと切り落とされて

いるものでした。しかし、キリストを信じる信仰の故に、折られた枝のところに接ぎ合わされ、いつ

くしみを受ける者とされたのです。ですから、目に見えない霊的存在であられる神への信仰、即ち

信頼がどんなに大事かが分かります。



B では、神に信頼するとはどういうことでしょうか。

 例えば、ロマ書で語られているのは、「キリストを信じる信仰によって義とされ、罪に対しては

死んだ者である」事。また、「キリストと共に死に、キリストと共に生きた者」である事。 この事

は、ギリシャ語のアオリスト形で書かれており、神が、過去にすでになさった事実である事を示して

います。この事実を、「感謝です。」と、自分のものとして受け取るならば、その真理が心に入り、

神の前に義とされていることが喜びとなり、平安を覚えて歩み始めるのです。このように、信仰と

は、神の御言の事実をそのまま受け取ることなのです。こうして、神を信頼することは、絶対に

間違いが無いと信じて歩んで行く者に、神の祝福が注がれるのです。
                    あいまい
 ところが、「信じているけれど・・・。」と曖昧な言い方をする人がいます。それは、信じてい

るように見せかけてはいますが、実のところ不信仰の表明なのです。心に受け取っていないので、

自分にとって不都合なことや、思い通りにならないと不平不満を言い、文句ばかりを言うように

なるのです。そして自分の力に頼ったり、目に見えるものに頼ったりするのです。それは神に対する
                      
かたく
不信仰の表明です。そのような者には、神はあえて頑なにされて、神のいない世界のむなしさを

味わわされるのです。
イスラエルの歴史からそれを学ぶことが出来ます。

 このように、信仰と不信仰の間には大きな差があるのです。


 
C 神は、へりくだって神を信頼して来る者に、いつくしみを注いでくださいます。 私たちは

被造物ですから、被造物としての分をわきまえ、へりくだった心を持って神に従うのは当然です。

だから、信じて神の言葉をそのまま受け取り、感謝して生きて行けばいいのです。 私たちは信じ

て受け取るだけで、神の相続を受けていく者とされていることを感謝し、それを喜んで行きま

しょう。
 


                                    



     
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