「慈しみと厳しさを分けたもの」
ローマ11章13〜36節
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@ 今朝は、神からの“いつくしみ”と“きびしさ”を分けた原因は何かを考え、私たちに必要
なことは、神のことばをヘリ下って「そのまま受け取っていくことだ」ということを学んでいき
たいと思います。
A さて、神の“いつくしみ”と“きびしさ”とは、正反対のものです。それを分けたものは何で
しょうか。その答えは、レビ記26章にあります。そこには、神に従って恵みにあずかった者の祝福
と、神に聞き従わず、神の契約を破った者たちへの厳しさが記されているからです。その分かれ目
は、神に対する“信仰”の有無です。イスラエルの民は、不信仰の故に切り落とされました。
そこにあるのは厳しさです。私たち異邦人は元来、神から遠く離れた者で、もともと切り落とされて
いるものでした。しかし、キリストを信じる信仰の故に、折られた枝のところに接ぎ合わされ、いつ
くしみを受ける者とされたのです。ですから、目に見えない霊的存在であられる神への信仰、即ち
信頼がどんなに大事かが分かります。
B では、神に信頼するとはどういうことでしょうか。
例えば、ロマ書で語られているのは、「キリストを信じる信仰によって義とされ、罪に対しては
死んだ者である」事。また、「キリストと共に死に、キリストと共に生きた者」である事。
この事
は、ギリシャ語のアオリスト形で書かれており、神が、過去にすでになさった事実である事を示して
います。この事実を、「感謝です。」と、自分のものとして受け取るならば、その真理が心に入り、
神の前に義とされていることが喜びとなり、平安を覚えて歩み始めるのです。このように、信仰と
は、神の御言の事実をそのまま受け取ることなのです。こうして、神を信頼することは、絶対に
間違いが無いと信じて歩んで行く者に、神の祝福が注がれるのです。
あいまい
ところが、「信じているけれど・・・。」と曖昧な言い方をする人がいます。それは、信じてい
るように見せかけてはいますが、実のところ不信仰の表明なのです。心に受け取っていないので、
自分にとって不都合なことや、思い通りにならないと不平不満を言い、文句ばかりを言うように
なるのです。そして自分の力に頼ったり、目に見えるものに頼ったりするのです。それは神に対する
かたく
不信仰の表明です。そのような者には、神はあえて頑なにされて、神のいない世界のむなしさを
味わわされるのです。イスラエルの歴史からそれを学ぶことが出来ます。
このように、信仰と不信仰の間には大きな差があるのです。
C 神は、へりくだって神を信頼して来る者に、いつくしみを注いでくださいます。
私たちは
被造物ですから、被造物としての分をわきまえ、へりくだった心を持って神に従うのは当然です。
だから、信じて神の言葉をそのまま受け取り、感謝して生きて行けばいいのです。
私たちは信じ
て受け取るだけで、神の相続を受けていく者とされていることを感謝し、それを喜んで行きま
しょう。
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