「心を開く」
マルコ6章1〜6節、53〜56節
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@ 今朝は、「心を開く」ことについて学びたいと思います。
A さて、私たちが「心を開く」というときには、2つの節目があります。
それは、イエス様を“信じる時”と“献身する時”です。 私たちにとって、この2つの節目は
皆必要です。特に、献身的に神に仕えて行こうとするときには、心を開く必要があります。
そこで、「心を開かれた人々」と「開かれていない人々」との違いを見ながら、「心を開く」
とはどういうことなのか考えてみましょう。
B では、始めに、「心が開かれていない人々」について見てみましょう。イエス様が郷里の
ナザレに行かれたときのことです。イエス様が会堂で教えておられるのを聞いた人々は驚いて
言いました。「この人は、こういうことを、どこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵
や、この人の手で行なわれる、このような力あるわざは、いったい何でしょう。 この人は大工
ではありませんか。」と。確かにナザレの人々は、イエス様を幼少の時から知っています。
それが30歳になって郷里を出、ヨハネからバプテスマを受けた後、力ある働きを始められた
ことが、ナザレにも伝わっていました。それは今、ナザレの人々が会堂で目の当たりにしたの
です。彼らは驚きました。しかし、イエス様を、「神の御子イエス」として尊敬しようとはしま
せんでした。どこまでも、ヨセフとマリヤの子と見て、心を閉じたからです。これは、或る意味で
自然な成り行きであって、当然のようにも思われます。 しかし、それは人間の感情的な見方で
あり、ガリラヤ地方の人々は、神のみことばと、預言者の働きによって確かめ、信じる心を
持ったのですから、彼らもそうすべきでした。しかし彼らの閉じられた心では、預言の成就を
見ることができなかったのです。彼らは、一方的に自分の見方だけに頼り、心を閉じたから
です。
このことから、私たちは、神のことばを聞くとき、自分の知恵に頼らず、全面的に受け入れて
いくべきものだ、ということが分かります。しかしながら、このナザレの人々と全く正反対の姿
が、53節以降にあります。それはゲネサレの人々です。イエス様が行かれると、彼らはあたり
をくまなく走り回って、病人たちを連れて来て、せめて、イエス様の着物の端にでも触らせて
くれるようにと願ったのです。彼らはイエス様に対し、無条件で信頼感を持ったからです。
この開かれた心を持っている人々に対し、イエス様は御業を行われました。ここに主の救いに
預かる第1の節目が、開かれた心に現れたことが分かります。
C 2つ目の節目として、役に立つしもべとして神様に用いられたいと願うとき、まず私たち
自身が心を開かねばなりません。これが第2の心を開く決心です。私たちが神の権威に対して
全面的に心を開き、信頼していくなら、神も私たちを信頼し、御業を現してくださるからです。
司会をするときも、賛美をするときも、祈るときも、またどんな奉仕にしても、心を開いてやって
いくとき、神は喜んで受け入れてくださいます。そのとき私たちも、役に立つしもべとなって
いくのです。これは自我を明け渡すことです。主に献身的に従うために、まず「私が心を開き
ます。」と第2の決断していきましょう。
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