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2005年4月17日


「心を開く」

マルコ6章1〜6節、53〜56節



@ 今朝は、「心を開く」ことについて学びたいと思います。


A さて、私たちが「心を開く」というときには、2つの節目があります。

それは、イエス様を“信じる時”と“献身する時”です。 私たちにとって、この2つの節目は

皆必要です。特に、献身的に神に仕えて行こうとするときには、心を開く必要があります。

そこで、「心を開かれた人々」と「開かれていない人々」との違いを見ながら、「心を開く」

とはどういうことなのか考えてみましょう。


B では、始めに、「心が開かれていない人々」について見てみましょう。イエス様が郷里の

ナザレに行かれたときのことです。イエス様が会堂で教えておられるのを聞いた人々は驚いて

言いました。「この人は、こういうことを、どこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵

や、この人の手で行なわれる、このような力あるわざは、いったい何でしょう。 この人は大工

ではありませんか。」と。確かにナザレの人々は、イエス様を幼少の時から知っています。

それが30歳になって郷里を出、ヨハネからバプテスマを受けた後、力ある働きを始められた

ことが、ナザレにも伝わっていました。それは今、ナザレの人々が会堂で目の当たりにしたの

です。彼らは驚きました。しかし、イエス様を、「神の御子イエス」として尊敬しようとはしま

せんでした。どこまでも、ヨセフとマリヤの子と見て、心を閉じたからです。これは、或る意味で

自然な成り行きであって、当然のようにも思われます。 しかし、それは人間の感情的な見方で

あり、ガリラヤ地方の人々は、神のみことばと、預言者の働きによって確かめ、信じる心を

持ったのですから、彼らもそうすべきでした。しかし彼らの閉じられた心では、預言の成就を

見ることができなかったのです。彼らは、一方的に自分の見方だけに頼り、心を閉じたから

です。

 このことから、私たちは、神のことばを聞くとき、自分の知恵に頼らず、全面的に受け入れて

いくべきものだ、ということが分かります。しかしながら、このナザレの人々と全く正反対の姿

が、53節以降にあります。それはゲネサレの人々です。イエス様が行かれると、彼らはあたり

をくまなく走り回って、病人たちを連れて来て、せめて、イエス様の着物の端にでも触らせて

くれるようにと願ったのです。彼らはイエス様に対し、無条件で信頼感を持ったからです。

この開かれた心を持っている人々に対し、イエス様は御業を行われました。ここに主の救いに

預かる第1の節目が、開かれた心に現れたことが分かります。


C 2つ目の節目として、役に立つしもべとして神様に用いられたいと願うとき、まず私たち

自身が心を開かねばなりません。これが第2の心を開く決心です。私たちが神の権威に対して

全面的に心を開き、信頼していくなら、神も私たちを信頼し、御業を現してくださるからです。


司会をするときも、賛美をするときも、祈るときも、またどんな奉仕にしても、心を開いてやって

いくとき、神は喜んで受け入れてくださいます。そのとき私たちも、役に立つしもべとなって

いくのです。これは自我を明け渡すことです。主に献身的に従うために、まず「私が心を開き

ます。」と第2の決断していきましょう。 

                               
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