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2003年6月15日


「死からの勝利と甦り


第Tコリント15章35〜58節


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神の奥義である「死からの勝利と甦り」について学びたいと思います。

A さて、奥義とは、最も奥深い肝心な事柄のことを言います。

そしてその奥義は、「朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着て、死が勝利にのまれる」

ことなのです。死とはこの肉体が失われる事ですが、決して死なないものがあります。それは、

私たちの魂です。私たち人間に魂があることは、今科学的検証がなされている「臨死体験」からも

明らかです。それによれば、瀕死の中にあって全く意識を失った状態になったにもかかわらず、

その魂はからだを離れ、横たわっている自分や手当てしている医師を客観的に見ていたという

のです。これこそ、人は肉体だけでなく魂を持っていることの実証ではないでしょうか。人は、

肉体から魂が離れた時に死を体験し、その肉体はモノになって朽ちてしまうのです。しかし、魂は

死んでいないのです。


B では、「死は勝利にのまれた。」とはどういう意味なのでしょうか。

私たちの肉体は朽ちて死ぬものであることは誰もが知っています。人間は誰でも、必ず一度は死ぬ

からです。この世にあって、死ほど悲しい出来事はありません。死は突然訪れ、愛する者を奪って

いくからです。なぜ死があるのでしょうか。聖書ではこのように言われています。「死のとげは罪で

あり、罪の力は律法です。」と。死の原因は罪なのです。罪によって私たちの魂が病み、故に肉体も病み、

死んでいくのです。罪を犯したことのない人は一人もいません。一度も嘘をついたことは無い、

と言える人は一人もいないからです。ですから、もし死後、自分の行いが全て明らかにされたら、

自分の手も足も目も心も全てがその報いを受けなければなりません。自分の心は自分が良く

知っているからです。しかし、もしそれまで行なってきた罪、全てが赦されるとしたら、私たちは、

どんなに幸いでしょう。新しい心、新しいからだを持って生きていくことが出来るのです。


その可能性があると、聖書は次のように語っています。「卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに

よみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に

属するからだによみがえらされるのです。」と。罪によって病んでいる魂が癒されるなら、それに

ふさわしいからだを与えられるからです。その時、死は力を失うのです。


C 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、

罪人を招くためにきたのです。」と言われたイエス・キリストは、病んでいる魂を癒すために

来られました。それは、
私たちの全ての病を負い、私たちの全ての罪の身代わりとなって死んで

くださったからです。そして、主はその死を打ち破って甦られました。その甦りのからだ、

朽ちることの無い栄光のからだを私たちにも与えて下さるのです。
全能の神は、そのために

御子イエス様を下さいました。ここに神の愛があります。あなたも神に愛されているのです。

それを信じて、神のところに帰って下さい。その時、罪赦され、死は勝利にのまれるのです。

これが、イエス・キリストの福音です。






                               

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