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2025年2月8日

自由人にふさわしい行動とは何か?

第Ⅰペテロ 2:16 


(起) 第Ⅰペテロ2章16節の御言葉から、「自由人に相応(ふさわ)しい行動とは何か」について考え、

全能主に対しては、「損得抜きで、どこまでも信頼して従って行く」という、一方通行の純な信仰心

学びたいと思います。


 
まず、初めに全能主の存在を、筋肉の仕組みから見て行きたいと思います。さて、筋肉には手足などの

自分の意思で動かせる
随意筋(ずいいきん)」と、心臓などの自分の意思とは関係なく動く「不随意筋(ふずいいきん)

という筋肉があります。これらの筋肉の働きは、体を動かすだけでは無く、多くの役割を持っています。

例えば、ポンプの役目をして血液や消化物を運んだり、また、水分を溜める貯水タンクの役目をして、

体温を一定にしたり、筋肉自体を冷ましたりする働きがあります。また、運動などをした時、胃や腸などの

内臓が動いて「ぐちゃぐちゃ」にならないように、衝撃を和らげようとする働きがあり、その他にも体に

良い影響を与える「マイオカイン」を分泌し、脂肪燃焼、抗炎症作用、血糖値の安定、認知機能向上、

美容効果、老化抑制などを司る働きなど様々な働きがあります。この筋肉は年を取っても強くなる性質が

あり、このような筋肉の仕組みは繊細で、筋肉繊維の構造や、筋肉が動くメカニズム(筋肉がゆっくり

動く遅筋と真逆な速筋)など、筋肉についての仕組みは実に豊かです。即ち、筋肉には人が生きて()

為に必要な、様々な役割や仕組みが組み込まれているのです。これらの仕組みが、たまたま出来上がった

進化の産物ならば、その進化の途中で内臓は破裂し、死滅して子孫を残すことが出来ません
子孫を残す為

には、初めから完全な仕組みが出来上がっていなければならないのです
。まさに、叡智を持った全能な力を

持った御方に()らなければ、命は存続出来ません。即ち、「人知をはるかに超えた御方」が、全てを

設計し
仕組み創造されておられるのです。その御方を聖書は「全能主、万軍のヤハウェ」であると、

証言しています。


(承)さて、この全能主に対する純な信仰を表していく方法は、第Ⅰペテロ2章16節にあります。

「あなた方は、自由人にふさわしく行動しなさい」
という御言葉です。ここに記されている「自由人」

というのは、「律法に対して自由」という意味で、聖書の他の箇所には「私達は律法から解放されている。」

「律法は廃棄された。」「律法は人を救う事ができない。」と記されています。しかしながら、私達の

生き方は、生まれながらに「ああしなさい、こうしなさい」と言われながら、「律法的な考え方」で生きて

来ました。しかし、正直なところ、「言われた通り出来る訳がない」というのが、私達の本音です。

なぜなら、人は「生まれながらに、自分勝手な性質を持っている」からです。それは、何故かと言いますと、

人は、「罪を犯したアダムの子孫」だからです。私達は「子どもには罪がない」と言われていますが、

子どもほど我が(まま)で、(むご)い罪人はいません。彼らは、素直であればあるほど、まっすぐな残虐性が

あるのです。人は、幼い時から「正しい行いをすることが、正しい者」と教えられて来たのですが、

その正しい事を「本当に実行してきたのか」と問われれば、そうではありません
。ここが一番大きな問題

です。例えば、悪い事をして怒られた時、「これからはこうします」と言わないと赦してもらえないので、

その場では本気のつもりで、「そうします」と言いますが、それを次の日には破ってしまうという経験は、

子どもの頃から何度もしている事です。その事実を正直に見つめたならば、子どもの頃から今日に至る

まで、私達は本当に卑怯な人間で、「正しい行いをしてきました」と胸を張って言える者は、一人も

いません。


(転)しかし、イエス・キリストは、そんなどうしようもない罪人を救うために来て下さったのです。

その救いは、全能主の一方通行の愛によって与えられた罪の贖いです。即ち、全能主は、「お前が正しい

行いをして、良い人間になったら救う」と、言われたのではなく、「罪人であることを正直に認めるなら、

そのお前のためにイエス・キリストの身代わりの贖いがある。それ故にお前を救おう
」という道を開いて

下さったのです。その全能主の一方通行の愛を知った時、「自分も一方通行の信じる心を持って信じて

行きたい」という真摯(しんし)な心で、信仰が始まった(はず)です。その信仰は、「何があっても全能主に

対して変わらない信頼を以て、信じて従って行こう」
という生き方です。ですから、その信仰は「全能主に

対しては損得勘定を働かせない」という決心です。全能主は、「その純な心さえあればいい」と言って

下さっているのです。第Ⅰテモテ1章5節を見て行きますと、「私のこの命令は、きよい心と正しい良心と

純真な信仰から出てくる愛を目標としています」
とありますが、聖書に出てくる「愛」は全て「一方通行の

愛」ですから、ここで言っている「きよい心と正しい良心と純真な信仰」というのは、決して律法では

なく、「全能主に対しては、純な信じる心を貫きます」という一方通行の心なのです。その「損得抜きの

心さえあればいい」と言われているのです。とは言え、私達は罪人として生まれ、その罪を抱え込んでいる

中で生活をしていますので、地上では損得(そんとく)勘定(かんじょう)の心が働きます。例えば、スーパーに行けば

当たり前のように安い方を選ぼうとして、「1円でも(とく)をしたい」と心を(つか)っています。ですから、

もし普段の生活から出て来る損得勘定に対してまで、「そんな損得勘定は駄目だ」と言われたら、地上では

生きて行けません。ですから、そんな損得勘定に(こだわ)る必要はないのです。しかし、「全能主に対しては

純を通す」という心は別物です。
全能主に対しては、「まず、全能主の国と、全能主の義を第一に求めな

さい」
という生き方です。この信じる信仰の心さえ、はっきりと定めているならば、それを自分の生き方に

して、純な信仰を通すのです。そうすれば、地上の律法に縛られる必要はありません。ですから、「私達は

律法の自由人なのです。」
しかし、「自分の信仰を駄目にするような損得勘定は働かせてはいけない」

という、信仰の決意は大切です。しかし、人間には肉の感情があり、肉の欲望も起こってきますので、

それを「信仰第一だ」と言って抑えつけたら、ストレスが溜まり、必ずどこかで爆発し、偽善者になるだけ

です。ですから、建設的な方法で発散できる時は、思い切り解放していいのです。例として、スポーツで

発散することは良いことです。どこまで行っても、「自分自身の信仰をダメにしない上での、肉の発散は

してもいい」という事です。しかし、信仰よりも肉のストレス発散の方が大事になってしまったら、

(もと)
()もありません。
それが、「あなた方は、自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、

その自由を悪を行う口実(こうじつ)としないで、全能主のしもべにふさわしく行動しなさい」(第Ⅰペテロ2:

16)
という御言葉の真意なのです。


(結)私達は、どうしようもない罪人を一方通行の愛で救って下さった御方を知ったのですから、この

御方に対しては、損得抜きで、どこまでも信頼して従い、一方通行の純な信仰の心を(つらぬ)いて行くの

です。
そこに心を定めたなら、私達はこの世の律法から解放され、自由人になります。どうか、この真理を

掴んで下さい。


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