2025年2月15日
| 『信仰の純度を高めて行く事』
第Ⅰペテロ 1:3~9
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(起) 第Ⅰペテロ1章7節の御言葉から、「信仰の純度を高めて行く事」を学んで行きたいと思います。
まず、創造主の存在を、「人体の設計図であるDNA」から紐解いていきます。DNAは、ごく一部
(赤血球など)を除いたすべての細胞の核の中に仕舞い込まれています。脳・心臓・筋肉などの様々な
器官は、たくさんの細胞が集まって出来上がっています。この細胞は1種類ではなく、実に200種類
以上もあり、これらを創り上げている設計図が、DNAなのです。DNAが持つ文字数は、30億文字以上
と言われます。岩波書店の公式情報では、広辞苑第七版の総文字数は約1,500万文字と発表されて
いますので、DNAは広辞苑200冊分相当の文字数になります。この30億文字を使ったDNAの遺伝
情報(設計図)によって、まず4種類のDNA文字から、3つの組み合わせで20種類ものアミノ酸が
造られ、そのアミノ酸が数百個以上繋がってタンパク質を構成し、更に、そのタンパク質が数百以上
集まって、筋肉などの細胞を作りあげているのです。ですから、タンパク質は、「どのアミノ酸をどの
順番で繋げるか」が正確に決まっているのです。このDNA文字が、親から子へ形質を伝える「遺伝子」
(DNA上の領域)が、約23,000個以上存在します。これだけ膨大な情報も、でたらめな羅列であれば
当然何の意味も為し得ません。身体を構成する情報が、正しく並ぶからこそ、命として存在するのです。
ここで、一つのタンパク質が出来上がる確率を考えてみましょう。当然、タンパク質は、20種類のアミノ
酸が数百~数千個正しく並ぶことで存在します。例えば、ある単純なタンパク質が、アミノ酸を100個
並べることで存在するとします。これを正しく並べる確率は、1/20を100回掛け算したものとなり、
「1.27×10130分の1」になります。この値は、宇宙規模で考えても起こり得ない確率とされる
「1×1050分の1」を超えています。つまり、たった1つの単純なタンパク質すら、確率的・統計的に
考えて、偶然にはできないのです。そこには、人知をはるかに超えた知的デザイナーの存在があって、
初めて成り立つことです。この点を聖書は、はっきりと伝えています。「全能主は御旨のままに器官を
それぞれ体に備えられた」(第Ⅰコリント12:18)と告げ、「全能主であるヤハウェが叡智を以て、
人間が生きる為の最適な仕組みを造り上げられた」と語っています。こうして、DNAによる設計図に
よって私達の命が存在している現実こそが、全能主の存在を明瞭に示している証拠なのです。
(承)さて、私達は「全能主の存在」を聖書を通して知り、また、同時に全能主の前に罪人で、滅ぼされる
べき対象だという事を知りました。それは、私達がアダムとエバの子孫である為、生まれながらに罪人で
あるということです。それ故に、「何をやっても、罪人という枠の中にいる自分を超えられない」のです。
つまり、「もっと真面目ないい子になりたい」と思っても、「できるわけない」というのが私達の本音なの
です。しかし、そんなどうしようもない罪人を救うためにイエス様が来て下さり、私達の罪の贖いをして
下さいました。そして、「私達を新たに生まれさせ、生ける望みの中に入れて下さいました」(第Ⅰペテロ
1:3)。これはすごい事です。しかし、5節を見ますと、「主を信じる事によって、終わりの時に現される
救いにあずかる」と書いてありますので、私達の救いは、信じたからといって、罪が完全に消されてしまった
訳ではなく、終わりの時に救いは完成するのです。
(転)今は、その終わりの時が間近に迫っている時代です。終わりの時代には、クリスチャンは様々な
試練を受けます。日本では戦国時代からキリシタンの迫害の歴史がありましたが、終わりの時には、666
という「悪霊が神」となり、それを拝まなければ売る事も買う事もできないという「患難時代」がやって
来ます。ですから、今、私達の信仰が精錬され、純度を高めて行かなければなりません(第Ⅰペテロ1:7)。
その純度によって、患難時代の迫害に如何に耐え得るかが決まるのです。しかし、先程も申し上げた
ように、私達はイエス様の再臨の時までは、罪人の体、不自由な肉の身体を持っています。そういう者が、
どうやって信仰の純度を高めて行けるのでしょうか。少なくとも必要な事は、罪人を一方通行のアガペーの
愛で救って下さった御方に対して、私達も「全能主を損得抜きにして、一方通行の信仰心で信じて行くこと」
を貫いて行くことです。しかし、そのように定めたとしても、自分を見て、自分の力でやって行こうと
すると、不安が襲って来て、「本当にできるだろうか」と、不信仰に陥ってしまいます。しかし、「なに
くそ精神」で「主に信頼せよ、主が成し遂げて下さる」と信じて行けばいいのです。それを信じ通す事が、
私達の純です。私達は、今その信仰の純度を高めて行き、患難時代が来た時に、信じる信仰をそのまま
表していくのです。即ち、自分で自分の魂を救おうとするのではなく、いつ死んでも後悔しないように、
今を信仰によって生き抜いて行くことです。主が、「私の魂を受けとめて下さる」と信じるなら、主に
お委ねしていけるはずです。
(結)私達が信じた救いは、全能主がイエス様の贖いの故に一方的に下さったものであって、私達の力や
能力にかかっているものではありません。全てが全能主にかかっているのですから、自分にできるか
できないかで判断してはいけません。どこまでも主に信頼し、主に成し遂げて貰うのです。確かに、
イエス様の再臨の時までは、自分自身の肉との戦いはありますが、それでも「主を見上げ、主が成し遂げて
下さる」という、その信仰を最後の最後まで通して行くのです。その中にあって、私達の信仰は精錬され、
整えられて行くでしょう。どうか、「主を信じる信仰においては妥協しない」と決めて、信仰の純度を
高めて行こうではありませんか。
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