2025年1月25日
『幼子のように、全能主が言われる事を そのまま聞いていく事』
ルカの福音書 16:19~31
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(起) ルカ16章の金持ちとラザロの記事から、罪人である事を自覚し、下手に出て全能主を見上げ、
「幼子のように、全能主が言われる事をそのまま聞いて行く事」を学びたいと思います。
まず、初めに全能主の存在を、「人体にある大腸の働き」から見て行きたいと思います。大腸には、
小腸で栄養を吸収し終えた廃棄物の「水分の吸収」と、「便の運搬の働き」があります。では、便は
どのように運搬されているのかと言いますと、大腸には輪走筋という筋肉があり、便が大腸に送られて
来たら、便の進行方向の筋肉を緩ませ、便の後ろ側の筋肉を収縮させる蠕動運動によって、便を肛門へ
と押し出して行きます。この働きが大腸で全自動で行われているのです。もし輪走筋がなければ、
大腸は小腸から上に上がって一回りしますので、便が溜まる度ごとに逆立ちして便を流さなければ
なりません。もし、この筋肉が自動で動かなければ、食べ滓を出せなくなります。しかし、これが
全自動の仕組みの故に、食事の度にストレスを貯める事なく、食事を取る事が出来るのです。普段は当たり
前のごとく考えていますが、これは実に見事な仕組みです。また、もし大腸が小腸に続いて下側に折り
畳まれるように配置されていたら、便を押し上げる必要もなく、この蠕動運動の仕組みもなくて
済みます。ところが、下側に配置されていると、便の水分を吸収しきれず下痢状となって流れてしまい、
直腸で便意を感じるセンサーが、下痢状の便に慣れて便意を感じなくなり、便秘にもなります。更に、
食物繊維が分解される過程で発生する発酵ガスが、大腸内で吸収されず、お腹がパンパンに膨らんでしまい
ます。ですから、大腸は小腸から上にあがって小腸を囲むように配置され、また便を全自動で運ぶようにと
考え尽くされた仕組みが創造されているのです。この仕組みを創造された方が「全能主はあなた方を
心配して下さるのですから、自分の思い煩いを、一切全能主に委ねなさい」(第Ⅰペテロ5:7)と言って
下さっています。即ち、食物の残り滓を排出する思い煩いを一切お委ねして、安心して生きて行けるの
です。このように、完成された仕組みを、考え抜いて創造して下さった全能主の御陰で、毎日を当たり前の
ように過ごして行けるのです。この創造主による当たり前の仕組みは、当たり前ではありません。偶然には
できない叡智の作品です。全能主に感謝しようではありませんか。
(承)さて、私達の命が全能主の手によって創られた事が明らかであるなら、この命は全能主と繋がって
いなければ意味がありません。命を与えられたものの、全能主に逆らい、この地上で自分の思い通りに
生きて行くなら、全能主とは繋がりません。そこで、ルカ16章19節から見て行きますと、ある金持ちと、
ラザロという貧しい人の話が出てきます。この話は、死んだ人間がどこに行くのかについて語られている
譬え話です。23節を見ますと、「金持ちが黄泉にいて苦しみながら目を上げると、アブラハムと
その懐にいるラザロが遥かかなたに見えた」とありますので、二人共死んで葬られた後に、
黄泉に行ったのです。しかし、金持ちは炎の中でひどく苦しみ悶えているのに対し、ラザロは
アブラハムの懐にいて、金持ちのように苦しんではいませんでした。つまり、黄泉には、良い黄泉と
悪い黄泉があるという事です。その二つの間には大きな淵があって、行き来する事は絶対にできま
せん(26節)。このように、全能主の懐に迎えられた者と、迎えられなかった者は、死後の行く場所が
良い黄泉と悪い黄泉に色分けされるのです。これは、非常にシビアな世界です。
(転)では、一体どういう者が全能主の懐に迎えられるのでしょうか。それは、18章10節からの譬えに
よって見分けることが出来ます。あるパリサイ人と取税人が主に祈る為に宮に上りました。パリサイ人は、
「私はこの取税人のような者でない事を感謝します。私は週に二度断食しており、全収入の十分の一を
ささげています」と祈りました。ところが、取税人は、目を天に上げる事もせず、胸を打ち叩きながら、
「絶対主様、罪人の私を憐れんで下さい」と祈りました。この二人の内、どちらが、全能主の懐に迎え
られたのでしょうか。それは、「胸を打って罪人の私を憐れんでください」と訴えた取税人の方です。
なぜなら、彼は自分の罪深さを自覚していたからです。この譬え話を通して、全能主は、「自分はこれを
やりました、あれをやりました」と言って自分を正当化する者よりも、「自分のような罪人は、何の役にも
立たない者です」と、自分の罪を自覚している者に目を留めて下さったことが分かります。どういう事かと
言いますと、人間はいくら自分を正当化しても、「罪を犯していない」と言える人は、一人もいません。
たとえ、自分の正しさを主張しても、心の中を見られる全能主の前には、決して正当化は出来ないから
です。だからといって、罪人が無条件で全能主に受け入れられる訳ではありません。そこには条件があり
ます。それは、罪人が自分の犯した罪の債務を支払うことです。しかし、罪人が自分の罪の負債を払える
なら、うつむいて「憐れんで下さい」とは祈らないでしょう。このような罪人の為に、全能主は罪人の
債務の支払いを、御子イエス様にさせたのです。ですから、イエス様は「罪に雁字搦めになっている
罪人の為に、その負債を贖うために来て下さいました。」その贖いを受けるには、負債を払って下さった
イエス様を信じる事です。この事を信じるには、素直に受け入れる心が必要です。そこで、イエス様は
幼子を呼び寄せ、「全能主の御国はこのような者の御国です」(18:16)と言われたのです。即ち、
幼子のように素直に贖いをして下さったイエス様を受け入れ、全能主に「その救いが必要です」と心を
向けて行く者を憐れんで下さるのです。これが御国に繋がるという事です。パリサイ人や金持ちのように
正義感を持って生きてきた者は、自分を落とすことが出来ません。しかし、取税人やラザロのように惨めな
思いをしてきた者は、素直にイエス様を信じ受け入れる者となるでしょう。ここに、譬え話の真意があるの
です。この幼子のように全能主を受け入れる気持ちを持てるのは、正義感の強いパリサイ人ではありま
せん。彼らは、自分の正義感で生きてきましたから、イエス様の譬え話を嘲るでしょう。しかし、
罪人だと自覚している人間は自分を否定できます。また、自分に頼りません。ですから、全能主が言われる
事をそのまま聞いて行く、幼子のような心を持てるのです。即ち、正義感の強い人は自分の義を表そうと
しますから、天の御国には遠いのです。しかし、遜って全能主の御心のままにしようと自分自身を明け渡す
者こそ、幼子の心です。幼子は、自分の判断を親に委ねるからです。その幼子のように自分の我を砕いた時、
私達の気持ちは明るくなり、「これでいいんだ」という爽やかな確信を持てるのです。すると、その
心が全能主に繋がり、永遠の命に繋がるのです。
(結)私達は子供の頃から「正しい人間でなければいけない」と教育されてきましたが、それは
全能主の前では正反対だという事を、聖書を通して知って下さい。正義感が強く、「自分は正しい
事をしている」と思っている人は、罪を認める事ができず、全能主と繋がりません。逆に、罪人で
ある事を自覚した人は、自分を誇る事もできないし、自分に頼る事もできません。ですから、下手に
出て全能主を見上げるのです。それが、全能主に繋がる大事な一歩です。どうか、ここに私達の身を
置きましょう。そして、幼子のように、全能主が言われる事をそのまま聞く心を持って行こうでは
ありませんか。
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