2025年1月18日
『全ての事に関して主に信頼し、委ねていく一方通行の心で、 自分の生涯を主にお捧げする事』
ルカの福音書 12:22~34
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(起) ルカ12章22~34節の御言葉から、「『全ての事に関して主に信頼し、主に委ねて行く』
という一方通行の心で、自分の生涯を主にお捧げする事」を学びたいと思います。
まず、創造主の叡智の業を見ていきたいと思います。鳥は、飛行するという目的のために必要な、
すべての知恵と技術を詰め込んだ結晶のような存在です。まず、飛行のために軽量化は欠かせませんが、
同時に強度も必要です。鳥の骨は軽く空洞になっていますが、トラス構造(三角形で繋ぐ構造)で
あるため、最小の材料で最大の強度を得る、最も理に適った構造です。これは、東京タワーなどの巨大
構造物にも利用されている仕組みなのです。また、上空の薄い空気でも酸素不足とならないために、
特別な肺の仕組みがあります。それは、空気を取り込む肺とは別に、気嚢という袋が多数あること
です。その気嚢は肺の空気を出し入れすることで、吸っても吐いても酸素を取り入れることが出来る
という、超高効率な肺と連動しているのです。さらに、翼の羽根にも見事な知恵があります。羽根の
毛(羽枝)には、微細な小羽枝というフック状の突起があり、これがマジックテープのように、
隣り合った羽枝と連結することで、毛でありながら強力な面を形成し、薄くて軽いうえに、風を受けても
バラバラにならず、強くてしなやかな翼を形成しているのです。これらを併せ持つことで、鳥は、その場
から瞬時に飛び立ち、羽ばたきし、ホバリングをし、滑空し、そして急降下もできる、自在な飛行を実現
しているのです。そのすべての構造は、自在に飛行するということのために考え抜かれた叡智の結晶
です。この仕組みは現在の航空機に応用され、この叡智に満ちた仕組みを創造された御方は、私達に
「ヤハウェ(全能主の名)を待ち望む者は、新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)と言われているのです。鷲が悠々と
空を飛べるようにその仕組みを創造された方は、この御言葉を成就させることが出来るのです。ですから、
私たちは「贖い主イエス様」を信じ、この「ヤハウェである全能主」に信頼して、その御力を味わって
行くのです。
(承)さて、この「ヤハウェである全能主」を信じていく時、ルカ12章22節では、私達に次のように
語られています。「何を食べようかと命の事で思い煩い、何を着ようかと体の事で思い煩うな。」この
御言葉をそのまま受け留めて、現実にそのような生き方ができるなら、苦労して働かなくてもいいのです。
こんな有難いことはありません。しかし、これは現実的ではありません。そこで、多くのクリスチャン
達は、「そんなのは綺麗事だ」と思ってしまいます。なぜなら、実際問題、私達は鳥のように、蒔く事も、
刈る事もせず、納屋や穀物倉もなしで、ただ空を飛んで生きて活けるような者ではありません。
むしろ私達は毎日「何を食べようか、何を飲もうか」と、いつも考え、日々の生活の中で「あくせくして、
気をもんで」生きています。なのに、聖書には、「あなたがたの父は、これらの物があなた方に必要で
あることをご存じです。だから、まず全能主の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、添えて
与えられます」(ルカ12:30)と書いてあります。この御言葉をどう理解すれば良いのでしょうか。
そこで、別の箇所を見ていきますと、第Ⅱテサロニケ3章10節では、「働こうとしない者は、食べる事も
してはならない」と書いてあります。先程のルカ伝とは大違いです。「何を食べるか、何を着るかと思い
煩うな。そういう事で気をもまず、主にお任せすれば良い」と書かれてあるのに、こちらでは、「働かざる
者、食うべからず」と、正反対の事が書いてあるのです。果たしてどちらが正しいのでしょうか。
(転)答えは、「両方とも正しい」です。どういう事かと申しますと、まず前提として、「働き人がその
報酬を受けるのは当然です」(第Ⅰテモテ5:18)という聖書のメッセージがあります。また、ルカ
12章では、「弟子達に対して語られていた」(ルカ12:22)という事がポイントになっています。
この弟子達は、フルタイムで主に従っている者たちで、自分の生活のために生産性のある仕事をしている
訳ではありません。ですから、その働きの報酬は、主から受けるのです。即ち、イエス様は弟子達を従えて
旅をして行かれましたが、その時その時の必要や、食べる物や着る物などは、ちゃんと与えておられた
という事です。ですから、イエス様は、自分に従って来る弟子達に対しては、「まず全能主の御国を求め
なさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられます」と言われたのです。次に、弟子ではない、
群衆に対して語られたのが、テサロニケの内容です。主の為に直接働いているわけではないのですから、
彼らは、自分の生活の糧を得る為に働かなくてはなりません。それは、ルカ14章25節以降に当てはまり
ます。ここでは、主に従って行きたいと思っている大勢の群衆に対して、「自分の全ての財産を懸ける
覚悟がなければ、わたしの弟子となる事はできません」(ルカ14:33)と言われました。即ち、本気で
主に従って行きたいと思っている人々に対して語られているメッセージは、主の弟子になった者と同じ
です。「自分自身の持っている物の内、余裕のある部分だけを主の為に使いますという地上的な損得勘定を
持っていては、主の為に生きて行く事はできない」という事です。即ち、「本気で主に従って行きたいと
思うなら、全部を主にお任せし、お委ねする」という生き方をしなければなりません。しかし、有難い
事は、私達が全てを懸ける覚悟で主に従って行く時、本当に全てを失ってしまうわけではないという事
です。主はちゃんと私達の事を見ていて下さり、必要が起こってきた時には、その必要に従って与えて
下さる方です。それが、生きておられる全能主の力です。ですから、私達はこの地上の守銭奴に
なってはいけません。恐れずに、全てを懸ける心、全てを主にお委ねする心で、主にあって生きて行くの
です。この点においては、弟子達と変わりはありません。
(結)こういうわけで、確かに聖書には二面性がありますが、両方とも真理です。一人一人の召しは
違いますから、生き方も違うでしょう。しかし、主の弟子であろうが、一般の信徒であろうが、その根底に
ある精神は同じです。それは、「全ての事に関して主に信頼し、主に委ねて行く」という一方通行の心
です。この一方通行の心を持って従って行く一般信徒たちを、主が見放す訳がありません。どうか、
恐れずに、その事を本気で信じて、自分の生涯を主にお捧げしようではありませんか。
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