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事 務 室
2025年9月7日
『
どんなことがあっても、
主を信じる事は当たり前の生き方
』
マタイの福音書 4:1~11、第Ⅰ列王記17:8~24
(起)
マタイ4章の悪魔の試みの記事と、第Ⅰ列王記17章のエリヤと
寡
(
やもめ
)
の記事から、「どんな事が
あっ
ても信じ続け、
主を信じる事は当たり前の生き方
をして行く事」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、
創世記2章7節に「ヤハウェなる全能主は、土の塵でアダムを
形造
(
かたちつく
)
り、
命の霊
を
その鼻に吹き
込んだ。すると、アダムは
生ける魂
となった」
とあります。確かに、人間の体は、地の塵の中に含まれている元
素
(酸素、炭素、水素、窒素、微量のカルシウム、リン、塩素、カリウム、
ナトリウム、マグネシウム、イオウなど)に
よって構成されています。しかし、ただ元素を集めれば
命が生まれるのか?というものではありません。もしそれが可能なら、人間が人間を造り上げる事が
できるでしょう。しかし、人間は
病
(
やまい
)
を治すことが出来ても、生み出すことは出来ません。
ですから、命の誕生は霊を吹き込み、
生ける魂
として下さった、全能
主にしかできない専権事項です。
即ち、全能主が命の霊を吹き込まなければ、人間は、霊と魂を持つ命とし
てスタートしなかったのです。
それ故に、
私達は全能主によらなければ、誕生できない命なのです。
全能主は、全ての被造物の
根源であり、全ての
生命
(
せいめい
)
の起源です。そのことは、被造物の存在によって明瞭に認められ、
言い訳の出来ないことです。現実に被造物の
叡智
(
えいち
)
に満ちた構造には、ミクロの世界(1ミリの
千分の1)の
緻密
(
ちみつ
)
な知恵と創造の力に満ちているからです。これは自然の世界で偶然に出来上がる
代物
(
しろもの
)
ではありません。ですから、私達がこの
全能主を信じて従って行くのは当たり前の事
なの
です。
(転)さて、それらを踏まえた上で、マタイ4章1~11節を読んで行きます。悪魔は、「イエス・
キリストは全能主の子であるのに、人の姿かたちを取っている」という矛盾をつく事によって、
イエス様が救い主である事を
妨
(
さまた
)
げようとしました。しかし、イエス様は
毅然
(
きぜん
)
と御言葉に立ち、
最終的に
「サタンよ、退け。『ヤハウェなるあなた
の全能主を拝し、ただ全能主にのみ仕えよ』と
書いてある」
と言って、悪魔を退けました。そして、
人の姿かたちを取ったままで十字架につき、
人間の罪の贖いをするという、全能主から与えられた使命を全うされたのです
。
ですから、私達も、
命の根源である全能主を信じる者とされたのですから、肉体にあって生きてはいても、
「全能主のみを
拝し、全能主にのみ仕えて生きて行く事は当たり前だ」
という所に立って、地上的な損得の
考え方
から離れ、全能主をひたすら信じて行く生き方に変えるべきです。
その生き方の実例として、
第Ⅰ列王
記
17章8節から見ていきます。「ここには、エリヤと
寡
(
やもめ
)
の事が出てきます。エリヤはヤハウェ
から『一人の
寡
(
やもめ
)
に命
じて、あなたを養うようにしている』と言われました。そこで、エリヤは
その
寡
(
やもめ
)
の所に行って『パンを下さい』と言うと、
寡
(
やもめ
)
は『
瓶
(
かめ
)
の中に一握りの粉と、
壺
(
つぼ
)
には、ほんの少しの油しか残っておりません。最後に息子と二人で
それを食べて死のうとして
いるのです』と答えました。しかし、エリヤはその
寡
(
やもめ
)
の返答をスルーして、『そのパン
を
まず私の
所に持って来なさい』と言ったのです。」普通なら、こんな横柄な申し出はありません。しかし、
エリヤ
は
「全能主を信じる事は当たり前」
という中で生きていましたので、
「
全能主はどんな方法でも生かす
事ができる」
と信じ、ヤハウェがこう仰せられる。
「
ヤハウェが地の上に雨を降らせる日までは、
かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならない」
と言い切りました。エリヤがこのように言い切れた
のは、「寡婦のパンを自分が食べてしまったら、その
所為
(
せい
)
で一家が死んでしまうのでは?」
という感情には、捕らわれなかったからです。実際に、
瓶
(
かめ
)
の粉と
壺
(
つぼ
)
の油は尽きる事なく、
毎日ずっと食べて行く事ができたのです。
(イエス様の時代に、あの五千人の人々が、5つのパンと
2匹の魚で養われたのと同じです。)
「ところが、ある日突然、
寡
(
やもめ
)
の息子が病気になり、息を
引き取ってしまいました。そこで、エリヤはその子を甦らせようとして、全能主に祈りました。」
しかし、全能
主に祈りさえすれば、全て通じるというものではありません。案の定、エリヤは三度も
祈ったのです。たった一
言の祈りで奇跡が起こったのであれば、自信もつくし、全能主をどこまでも
信じ続けて行こうという思いになるで
しょう
(ジョージ・ミラーのように)
。しかし、実際には
そういう訳にはいきませんでした。「ここでは、三度も祈り求
めた時に、ようやく願いが聞かれて、
全能主が子供を生き返らせて下さったのです。」このエリヤの記事を通して、どこまでも
諦
(
あきら
)
めず、
トコトン信じ続けて行く事の大切さが、よく分かります。私達にとって、頼る御方は
全能主しか
ありません。ですから、
最後まで主を信じる信仰を貫くことは当たり前なのです。
たとえ「自分の
思
う
ようにならなくとも、信じて行く」という自分の意志を最後まで現して行くべきなのです。この
生き方は、頭で決
断するものではありません。
「自分の心の本心として、全能主に従って行きたい」
という思いがあれば、「自分の霊の本心」を、
無条件な純な心で表明して行くものです。
そうすれば、
全能主はその人の嘘のない純な心を汲み
取って下さり、「わたしの所に来い」と言って受け入れて下さる
のです。この信仰のルールは、地上的なルー
ル、常識、習慣に沿ったものではありません。しかし、
私達は全能主に信頼する世界に入ったのです。即ち、地上で肉体を持ちながらも、「天の御国を本気で
目指して行く者の生き方」の中に入ったのです。ですから、私達は
「何が何でも、信じるのは当たり
前」
という、信じた者の本心で生きて行くのです。
(結)どうか、どこまでも
「聖書の御言葉に立ち、信じる事は当たり前だ」
という、本心の信仰を
表に出して、堂々と表明して行きましょう。そして、最後に
寡
(
やもめ
)
が言ったように、
「あなたの口に
あるヤハウェの言葉が真実で
あることを知りました」
という言葉が、春日井の町の人々の口から
表されて行くように、エリヤの信仰に立ちま
しょう。その為に大胆に信じ、
「主を信じる事は当たり
前の生き方である」
ということが、自分の本音ですと、明
らかにして行きましょう。
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