2025年8月31日
『頭をこねて疑うのを止め、主に100%の信頼を寄せて、 大胆に信仰によって歩んでいく』
ヨハネの福音書 20:13~16
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(起) ヨハネ20章13節で、主の墓の前で泣いていたマグダラのマリヤのように「頭をこねて疑うのを
止め、主に100%の信頼を寄せて、大胆に信仰によって歩んで行く事」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、イザヤ書40章28節を見ますと、「あなたは知らないのか。聞いていないのか。ヤハウェは
永遠の創造主、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない」と
あります。以前、ムナクロチドリの話をしましたが、その時には、ハワイからアラスカまで飛んで行く為の
エネルギーの問題について話しました。今日は、飛んでいく方向の問題について考えます。通常、方向を
知る為にはコンパスを用います。コンパスの針の先は磁石になっていて、その磁石の針が地球の磁気に
引き寄せられる事によって、必ず北を指すようになっています。ですから、コンパスを持っていれば、
常に自分の向いている方向が分かります。それでは、鳥の頭の中にはコンパスが入っているのでしょうか?
また、それだけではありません。鳥が今、飛んでいる現在位置が分からないと、行きたい場所に向かう
ことが出来ません。その為にはGPSが必要です。更に、目的地がどの位置にあるかを知る為の地図が必要
です。ムナクロチドリは、コンパスとGPSと地図を持って飛んでいるのでしょうか?しかも、目的地の
ハワイまで、正確に最短距離で飛んで行かないと、70gの脂肪では、その手前で燃料切れになってしまい
ます。という事は、ムナクロチドリの頭の中には、生まれた時からGPSとコンパスと正確な地図が仕舞い
込まれているということです。このような仕組みは、初めから完成していないと、進化の途中で、試行錯誤
している間に絶滅してしまいます。ですから、全てその仕組みと、地磁気の存在と地球全体の形と大きさを、
初めから創って知っている方でないと、渡り鳥を生かせられません。即ち、その測り知れない英知と力を
持つ創造主、すなわち「サムシング・グレート」と言われる全能主がおられないと、渡り鳥は現在まで、
存続出来なかったでしょう。その御方こそが聖書に記されている、全世界の創造主である「ヤハウェなる
全能主」という御方なのです。
(転)この事を踏まえた上で、ヨハネの福音書を学んで行きますと、人間を罪の中から救って下さるイエス
様の事がよく分かります。イエス様が墓から甦られた時に、マグダラのマリヤはイエス様を「私の主」と
呼びました。このマリヤは、安息日が明けた早朝に、墓に納められたイエス様に香油を塗ろうとして
墓に行った女性です。ところが、墓が空になっていたので、引き返して弟子達に伝えました。すると、
ペテロとヨハネとマリヤは、一緒に墓に走って行きましたが、その時、ペテロとヨハネは空の墓を見て、
直ぐに帰ってしまったのです。ところが、マグダラのマリヤは、一人残ってそこで泣いて佇んでいたの
です。このマグダラのマリヤは、ユダヤ人から罪に定められた時に、イエス様から「わたしは、あなたを
罪に定めない」と言われて、罪の赦しを味わった女性です。ですから、その時から悔いし砕かれた心を
持って、主にあって新しい生き方を歩み出しました。彼女に声を掛けて下さったイエス様が、生きる力と
なったからです。ですから、彼女が「私の主」と呼んだところに、マリヤの心が、どれだけ一心に主に
向いていたかが分かります。ところが、ペテロとヨハネはさっさと帰ってしまいました。本来なら、彼らが
一番最初に、復活したイエス様とお会いする事が出来たはずです。なのに、さっさと帰って行ってしまった
彼らは、その感動と恵みに預かれなかったのです。彼らは、主に対する本気な心を失っていました。
ですから、実際に復活されたイエス様を見るまでは、信じようとしなかったのです。また、弟子達の中でも、
特にトマスは「イエス様の手の釘の跡を見なければ決して信じない」と言い切りました。他の十人の弟子達は
復活したイエス様を見て喜び、感動してトマスにその事を伝えました。しかし、トマスは心を開かず、
彼らの話を信じようとしませんでした。それは、どこまでも自分目線で、自分の見た物、自分の頭で
理解したものしか受け入れようとしない人間の傲慢さがあったからです。ところが、イエス様は「見ないで
信じる者は幸いです」と言われました。それは、イエス様の言葉と約束事は、絶対的な真理で嘘はないから
です。ですから、「イエス様の言葉、全能主の言葉は正しい」と、そのまま信じて受け入れていくことを
全能主は願っておられたのです。しかし、マリヤは、墓に収められたイエス様であっても、「私の主」と
言って、どこまでも主に心を向け、頭をこねずに主を受け止めていたのです。このマリヤの心を持っていた
者と、さっさと帰ってしまったペテロ達のような者では、復活の主にお会いしたときの幸いは測り知れない
差があります。即ち信じ続ける信仰とは、「見ないで信じる者は幸いです」ということです。マリヤは、
「信頼する心、疑わない心」を持っていたので、墓の側で泣いていたのです。しかし、私たちの常識では、
「見ないで信じる事」は盲信に繋がるため、ブレーキが掛かります。しかし、私達は、信じて騙される事の
無い、完全に信頼して、頼る御方を知ったのです。その方は、私たちの命はもちろんのこと、天地万物を
創造された絶対なる全能主です。そして、私たちは、その御方の御子による罪の赦しさえ頂いた者です。
(結)このように、私達もマリヤと同じように、イエス様から「あなたを罪に定めません」と言われて、
罪の債務証書を十字架に釘付けにされたのです。しかも、その救いはアオリストの贖いで、私達の犯した
過去・現在・未来のすべての罪を全部贖って下さった救いです。これ程のアガペーの愛はありません。
ですから、1ミリでも、疑いの心を持つのは、罪です。全能主、イエス様、聖書は、疑う対象ではありません。
単純に全能主とイエス様と聖書を、そのまま信じて行く勇気を持ちましょう。そして、マリヤさん以上に、
主に心を向けて行くべきではないでしょうか。未信者の場合、自分が信頼できなくなったら、生きていけま
せん。しかし、私達クリスチャンは、全能主、イエス様、聖書を信じ続けて行けるのです。どうか、主に
100%の信頼を寄せて、大胆な信仰によって歩んで行こうではありませんか。
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